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2020年4月9日木曜日

性的中毒という反復享楽

自我理想と超自我の区別」で、「フロイトラカン山のエロ小屋は五合目あたりからある」としたことについて、別の人から問いをもらっている。「エロは最初からあるんじゃないですか」ーー確かに『性理論三篇』等を一合目とするならそうかもな。

小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。
Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

もし性理論が一合目なら(たいして読まれているようには思えないが)、ハンスとドラだってそうだ。そこからフェラチオの起源は乳房の吸啜だとするフロイトの記述を掲げてみよう。


症例ハンス
ハンス少年はあるとき厩舎に行き、雌牛の乳しぼりを見る。

「ほら、おちんちんからミルクが出ているよ」

すでにこれらの観察から期待できるのは、ハンス少年に見られたものの大部分とはいわないが、その多くは子供の性的発展に現われる典型的なものらしいということである。女性に、男性性器を吸うという考えが見出されても、さして驚くにはあたらないということを私はかつて論じておいた。Ich habe einmal ausgeführt, daß man nicht zu sehr entsetzt zu sein braucht, wenn man bei einem weiblichen Wesen die Vorstellung vom Saugen am männlichen Gliede findet.

このけしからぬ興奮のよってきたる原因は、非常に無邪気なもので、つまりそれは、母の乳房を吸うことに由来するのであり、その場合雌牛の乳房はーーその機能上からいうと女性の乳房、形態および位置からは陰茎――格好の仲だちとなるのである。幼いハンスの発見は私の主張の後半の証明をしている。

さておちんちんに対する彼の興味は、単に理論的な面だけにとどまらず、予期された通り、彼に性器接触への興味を起こさせる。三歳半のときペニスをいじっているところを母に見つかる。

母は脅かす。「そんなことをしていると、A先生に来ていただきますよ。先生はおちんちんを切っておしまいになります。そうしたらどこでおしっこをするの?」

Diese droht :»Wenn du das machst, lass' ich den Dr. A. kommen, der schneidet dir den Wiwimacher ab. Womit wirst du dann Wiwi machen?«


ハンス「お尻」

Hans: »Mit dem Popo.

彼は罪悪感も抱かずに返事をしているが、この機会に「去勢コンプレクス」を獲得している。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年)

ゴダール、映画史1B

ーードラってこんな表情してたんじゃないかな


症例ドラ
私の見るかぎり、ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要である。それはある身体器官 Organe des Körpers の、正常ないし病因的現象によってなされるある種の「身体側からの反応 somatisches Entgegenkommen」がなければ、成立しない。……

いわゆる性倒錯のなかで、比較的嫌悪を与えない倒錯は、著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性行為の表出(性器の吸啜)[Sexualverkehrs (des Saugens am Gliede)]が起こることを耳にしていたやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識の幻想を展開させ、喉の刺激感覚と咳[Sensation von Reiz im Halse und durch Husten]によって表現したことはなんら不思議ではない。

そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このような幻想に到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、ドラの例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのような幻想を、独力でつくりかげるための身体的前提条件 somatische Vorbedingungが、注目すべき事実であたえられたのである。

彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」Lutscherinであったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯[Lippen- und Mundschleimhaut für eine primäre erogene Zone ]と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。

この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」の条件となるのである。そして本来の性的対象、つまりペニス [eigentliche Sexualobjekt, das männliche Glied]をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、…フェラチオ(ペニスを吸うSaugen am Penis)という倒錯的幻想も、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸う[Saugen an der Mutter- oder Ammenbrust」という、先史的ともいえる幻想の改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる子供との交際でふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象Mittelvorstellung zwischen Brustwarze und Penis として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)


やあいいね、これが一合目なら。とはいえこの内実を真に把握しうるのは、フロイトの現勢神経症概念を掴む必要があるよ。この現勢神経症概念は日本のフロイト研究者においてはほとんど無視されてきた概念で、中井久夫が阪神大震災後の精力的なトラウマ研究のなかで、外傷神経症と結びつけて現勢神経症概念にようやく細々と注目され始めた。ま、だから五合目ぐらいだよ。学者連中もいまだほとんどわかってないんだから。

次にある現実神経症が現勢神経症のこと。

戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


この現勢神経症とは事実上、ラカンのサントームと相同的概念である。蚊居肢流に言えば、サントームは事実上、外傷神経症だと言ったっていい。➡︎ 「サントームは外傷神経症の別の名である Le sinthome est un autre nom du névrose traumatique

そもそもラカンにとって「現実界はトラウマ界」なんだから。現実界の症状はトラウマの症状だ。

以下、まずフロイトの記述を掲げよう。


現勢神経症と精神神経症
現勢神経症 Aktualneuroseの症状は、しばしば、精神神経症 Psychoneuroseの症状の核であり、先駆けである。das Symptom der ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms.(フロイト『精神分析入門』第24講、1916年)
現勢神経症=心的意味作用のない身体的過程
現勢神経症の諸症状、すなわち頭が重い感じ、痛み、ある器官の刺激状態、ある機能の減退や抑制には、なんの「意味 Sinn」、すなわち心的意味作用 psychische Bedeutung もない。これらの症状は…それ自体が全く身体的過程 körperliche Vorgängeなのであり、この身体過程の成立にあたっては、われわれの学び知っている複雑な心的機制はいっさい抜け落ちている。…(フロイト『精神分析入門』第24講、1916年)




ここでの「心的意味作用」とはファルスの意味作用とこれまた相同的表現である。「心的意味作用」とは、結局、「語表象Wortvorstellungen」による意味作用だから。

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)


『精神分析入門』第24講に戻ろう。

現勢神経症=リアルな症状、性的中毒、リビドー興奮
ヒステリー的頭痛あるいは腰痛を例にとろう。分析が示すのは、これは、圧縮と置換を通しての、一連の全リビドー的幻想 psychische Bedeutung. あるいは記憶にとっての代理満足Befriedigungsersatzだということである。
しかしこの苦痛はかつてはリアルなものrealだった。当時、この苦痛は直接の性的中毒症状 direkt sexualtoxisches Symptom、リビドー興奮 libidinösen Erregungの身体的表現だった。すべてのヒステリー症状は、このような核をもっていると主張するどんな手段もわれわれは持たないが、これはきわめてしばしば起こっており、リビドー興奮による身体の上への影響のすべての標準的あるいは病因的なものは、ヒステリー症状形成の殆どの支柱である。

したがってリビドー興奮は、「母なる真珠の実体の層もった真珠貝を包む砂粒 Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz umhüllt hat」の役割を果たす。同様に、性行為をともなう性的興奮sexuellen Erregungの一時的徴は、精神神経症によって、症状形成にとっての最も便利で適切な素材としてつかわれる。(フロイト『精神分析入門』第24講、1916年)

上に現勢神経症の特徴として「リアルな症状」、「性的中毒 sexualtoxisches」やら「リビドー興奮libidinösen Erregung」とある。他方、精神神経症は幻想、あるいは代理満足とある。




繰り返せば、この底部にある現勢神経症は、ラカン用語では現実界の症状であり、事実上、原症状としての「サントーム」あるいは「サントームの享楽 la jouissance du sinthome」のことである。

「性的中毒 sexualtoxisches」とあったけれど、「性的」というシニフィアンがおきらいな方は、「愛の欲動 Liebestriebe」、「エロスエネルギーEnergie des Eros」と呼んでよい。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。…哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)



話を戻せば、何よりもまずフロイトのリビドーとはラカンの享楽である。

リビドー =享楽
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてサントームはリアルな症状であり、その中毒的な反復強迫(反復享楽)である。

サントーム=リアルな症状、中毒的な反復享楽
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un -23/03/2011)


現勢神経症がラカンのサントームと近似概念であるのは、原抑圧という用語を仲介させれば、よりいっそう鮮明となる。

現勢神経症の原因「原抑圧」
原抑圧Urverdrängungenは現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
サントームの原因「原抑圧」
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動のリアルの原因「原抑圧」
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


ここでの穴は、ボロメオの環の想像界と現実界の重なり目にある「真の穴 vrai trou 」のこと。



要するにこうである(上段は、下段のミレール2005に付け加えた)。



厳密に現勢神経症=サントームと言うつもりはないが(ラカン、ミレールともわたくしの知るかぎり、現勢神経症用語を一度も口にしていない)、ほぼ相同的な概念であるのは間違いない。

そもそも初期フロイトの「不安神経症」ーー現勢神経症の下位分類のひとつーーの定義文は、いま上に掲げたサントームの定義文のパクリみたいなところがある。


不安神経症とサントーム
不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt 抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)
四番目の用語(サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



最後にラカン研究のメッカのひとつベルギーゲント大学の2人のラカニアンによるサントーム論にから引こう。


症状の二重構造
フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性理論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、(現勢神経症の比喩としての)《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(症例ドラ、1905)である。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 2002



で、いいかい、真のエロ小屋は五合目あたりからで? ボク流ですまないけど。