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2020年4月14日火曜日

現場の頑張りを理由に批判を封じるのは誤り

一方で押川正毅のような人がいる。彼は西浦博氏とも対話しているので代表者の1人としてかかげるが。





押川正毅氏は押谷仁氏も批判している。


昨日のNHKスペシャルのPCR検査関連をまとめて頂いています。読んでるだけで絶望感が…
押谷さん、「善意」で御尽力は疑いませんが、
- 言うべきことを言うべきときに、言うべき相手に言ってない
- エリートパニックを起こしている
- 誤った戦略への固執
など、対策の責任者には不適です。交替を。 https://twitter.com/akabishi2/status/1249027312894394369


押川氏は現場の頑張りを理由に批判を封じるのは誤りという立場。わたくしもこの立場をとるね。






他方、現場の頑張りを理由に批判はよくないとする精神科医がいる。




わたくしはこの立場をとらず批判すべきだと考えるが、批判すべきなのは実際に医療施設でコロナ重症患者に接して苦闘されている医師た看護師にたいしてではまったくはない。そうではなく、むしろ彼らを守るためにこそ西浦氏や押谷氏への批判が必要だという立場をわたくしは取るということだ。

もし斎藤環氏が後者への批判をも封じるつもりで上のように言っているのなら、共感の共同体マインドの人物だとさえ疑いたくなる。つまり日本共同体での最も醜悪な面のひとつ「無責任システム」の側についてしまっている人物ではないかと。


共感の共同体
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」『すばる』1988 年 7 月号)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)