このブログを検索

2020年4月14日火曜日

骨抜き中井久夫

ここでは前回掲げた斎藤環の次のツイートをもう少し吟味する。



ここでの「無名な現場の人々の知恵と工夫と頑張り」とあるのは、中井久夫の「勤勉と工夫で日本を支えている無名の人」に起源があるだろうとわたくしは推測する。





上に「またこの言葉を貼っておこう」あるので、斎藤環は何度か引用しているのだろう、次の文を。

日本では有名な人はたいしたことがない。無名の人が偉いのだ。めだたないところで、勤勉と工夫で日本を支えている無名の人が偉いのだ。(中井久夫『「昭和」を送る』)

ところでこの文は、続いて「ただし問題はある。勤勉と工夫の人は、矛盾の解決と大問題の処理が苦手である。そもそも大問題が見えない」という意味合いのことが書かれているのである。

これは中井久夫の主著の主要テーマである。

そしてそこには勤勉と工夫の人である執着気質者はーー、

彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)
カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』第2章、1982年)


「思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかない」「大破局は目に見えない」「盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある」「「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい」等々、これが勤勉と工夫の人である執着気質者の特徴である。

いまコロナ対策現場の人々はではこういった状況に陥ったり、陥りつつあるのではないかと疑うのが、斎藤環がひどく尊敬しているらしい中井久夫への最低限の礼儀ではないか。


分裂病親和者と執着気質者

ここでは中井久夫の上の2区分を仮に全面的に受け入れて記述するが、斉藤環は上に貼り付けたように「コロナ禍は日本人が得意とする「中規模の問題」かもしれない」と言っているので、この「分裂病親和者/執着気質者」の対比も視野には入れているのだろう。ようするに国連総長などが繰り返している「第2次世界大戦以降で最も困難な危機」だとはみなしていないのだろうと憶測する。そしてこれ自体、首を傾げたくなる。


さてどうだろう。いままで「日本が驚異的に低い死亡率を維持している理由」は、斎藤環曰くの「無名な現場の人々の知恵と工夫と頑張り」なのだろうか。その部分もあるかもしれない。だが、それを前面に出しての「最も合理的な解」などという言い草はわたくしには到底受け入れられない。まだ世界の感染データを吟味してのBCG仮説のほうがマシである。共感の共同体のムラビトのみなさんは、熱い思いで斎藤環の言説に共感する人がいるのかもしれない。だがわたくしにはどうあっても耐えがたいのである。

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。(古井由吉『哀原』女人)
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)




農耕民的特性をもつ多くの方々も、いたずらに勤勉と工夫の現場の人々に同一化して村祭り的に共感しておらずにーー日本では「現場」とはマナ語のようなもので、ムラビトの方々はそれだけでうっとり共感してしまうようだが、たとえばマルクスがフランスの内乱を見事に分析できたのはロンドンという現場外、「外部」にいたことが大いに貢献している筈であるーー、現場の人は大局が見えていない可能性、つまり木を見て森を見ていない可能性、それゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づいておらず、盲目的な勤勉努力の果ての「レミング的悲劇」が起こりうる可能性を疑う心をすこしでももつべきではないか。

危機の現場とは多くの場合、次のようなことが起こる。

一つの事故が起こると、その組織全体が異常な緊張状態に置かれます。異常な緊張状態に置かれるとその成員が絶対にミスをしまいと、覚醒度を上げていくわけです。覚醒度が通常以上に上がると、よく注意している状態を通り過ぎてしまって、あることには非常に注意を向けているけれど、隣にはポカッと大きな穴が開くというふうになりがちです。(中井久夫「危機と事故の管理」1993年)


もっともここで言いたいのは、前回も記したように、実際に医療施設で重症患者に接して苦闘されている医師た看護師への批判ではない。そうではなく彼らを守らなければならないゆえにこそ押谷氏や西浦氏などに対する次のような批判精神があるベだと考えている。


Masaki Oshikawa (押川 正毅)@MasakiOshikawa 4月12日

昨日のNHKスペシャルのPCR検査関連をまとめて頂いています。読んでるだけで絶望感が…
押谷さん、「善意」で御尽力は疑いませんが、
- 言うべきことを言うべきときに、言うべき相手に言ってない
- エリートパニックを起こしている
- 誤った戦略への固執
など、対策の責任者には不適です。交替を。




クラスター潰し集中戦略派の穴でも記したが、そもそも押谷仁氏や西浦博氏は、すでに士気の萎縮が起こりつつあるのではないか。わたくしはそう疑いたくなる発言を散見するが、他の方々ははどう見ているのだろう?

demoralization――士気の萎縮――というのは経験した人間でないとわからないような急変です。これを何に例えたらいいでしょうか? そうですね、こどもが石合戦をしているとします。負けてるほうも及ばずながらしきりに石を放っているんですが、ある程度以上負けますと急に頭を抱えて座り込んで相手のなすがままに身を委ねてしまう。これが士気の崩壊だろうとおもいます。つまり気持ちが萎縮して次に何が起こるかわからないという不吉な予感のもとで、身動きできなくなってくるということですね。(中井久夫「危機と事故の管理」1993年)


以上、もちろんわたくしは、ムラビトたちはここで記したことを嫌うだろうことをよく知っていてこの記事を書いた。ツイッター村民における共同体の共同体クラスターはおそらく斎藤環のようなツイートを好みわたくしは村八分の対象でありうる。


日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)