何度か示している話だが、柄谷は、帝国/帝国の原理/帝国主義(新自由主義)の3区分をしている。
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帝国・帝国の原理・帝国主義
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帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
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近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
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「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)
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この図の上3つは『世界史の構造』で示されている項であり、下段の「父在/父不在」はわたくしが付け加えた。柄谷観点では、帝国主義あるいは新自由主義とはヘゲモニー国家不在の「父なき時代」である。そして現在の新自由主義とは資本の論理の時代であり、柄谷は『トランスクリティーク』で、資本の論理を「資本の欲動」とも表現している。
この資本の欲動とは、ラカン的には享楽欠如の拡張生産のことである。
「資本の欲動」あるいは「資本の享楽」の時代としての「父なき時代」とは、もちろん「エディプスなき時代」ともすることができる。
さらに前期ラカン用語を使えば、「父の法」が失墜して、元々底部にある「母の法」が露出した時代とすることもできる。
ーー母の法とは、後年のラカンの言い方なら「法なき現実界」に関わり、享楽は現実界であるので「無法の享楽」とも言いうる。ラカンは学園紛争前後から《父の蒸発 évaporation du père 》(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)、あるいはイデオロギー的主人の言説から資本の言説への移行を示唆している。ラカンの「言説」は社会的つながりという意味であり、資本の言説は「父なき時代の資本の享楽の社会関係」ともしうる。
さてここで冒頭の柄谷に戻る。「帝国/帝国の原理/帝国主義」の柄谷である。帝国主義を「資本の欲動」に置き換えてみよう。つまり「帝国/帝国の原理/資本の欲動」。
柄谷はつぎのように図示できることを言っている。
この図で言いたいことはこうである。帝国は支配の論理になりがちだからダメだ。だが帝国が失墜してしまえば、裸のままの資本の欲動が露われ、世界は資本の弱肉強食メカニズムに貪り喰われてしまう。このむきだしの資本の欲動を飼い馴らすためには帝国の原理が必要だと。
この柄谷はラカンの思考と相同的であり、次のように図示できる。
この「西欧精神医学背景史」は、魔女狩りをめぐる記述で名高く、イデオロギー的キリスト教への強い批判の論でもある。
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