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2020年4月17日金曜日

反安倍ムラ


たとえば反安倍クラスターやら反官僚クラスターやらの集団を形成し、知識も基礎学力もないまま、脊髄反応的にRTや「いいね!」を繰り返してパッシングしているつもりらしき連中には外部がまったくない。これは安倍や高級官僚が実際に悪か否かは関係がない。肝腎なのは、彼らの心性や言動には「外部」がないことである。仲間同士で湿った瞳を交わし合い頷き合っているだけである。

連中は次の定義上、ムラビトに他ならない。

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)
柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)

このあたりは、蓮實重彦が1980年代の仕事ですでに、主にフローベールに依拠しつつ実に綿密に分析した話である。ま、こういった話は、「退行の世代」21世紀のムラビトたちにはまったくイミフだろうが。

フローベール曰く、文明とともに《愚かさは進歩する!》。フローベールの時代におバカの読者を拡大生産する大衆紙が発明されたなら、ーー《人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである》(蓮實重彦)ーー21世紀はおバカの書き手を拡大再生するSNSが発明されている。

ムラビトにはつける薬がない。彼らは自らがムラビトだとひとときでも疑ったことがない。さらに言えば、たぶん「善人」になれると錯覚を与えてくれるらしいクラスタームラの居心地がとってもよいのだろう。

少し前、橘玲のツイートを引用したがーー彼はたんなる評論家とみなされている人かも知れないが、分析精神がとっても旺盛な人で、東京大学の財政危機研究会でも、ノーベル経済学受賞者ブキャナンを引用した彼の『(日本人)』が参照検討されている、ーー最低限、自らがパッシングに耽っているときには、次のような自己吟味をしたらどうなんだろうね。




ま、こういう批判精神がほとんど皆無というのがムラビトの特徴のなんだろうがね。とはいえ、蓮實からいくらのサワリを引用列挙しておこう。

大衆化現象
同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)
大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。(……)

問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ(……)。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

説話論的磁場
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)
あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)



こういったことは現代的な説話論的装置に囚われるかぎり例外はない。ツイッター装置は覿面だとしても、わたくしが今記しているブログなども似たようななものである。高みから語っているようにみえる蓮實自身自戒している。

制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章の冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こをが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)