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2020年4月27日月曜日

蛸壺インテリとその同盟者たち

おい、「消費税の代りに姑息に社会保険料増」ってのはコモンセンスを言っただけだがな、そこらへんのバカ学者に依拠して文句言ってくんなよ。


かつて渡辺一夫はこう言ったが、現在も似たようなもんだよ。ひょっとしてさらに悪化しているかもしれない。


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)


以下の二文は韓国の知識人と比較された日本の知識人だが、それは韓国には限らない。

韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」1993年『家族の深淵』所収)
キム・ウチャン教授と知り合ったのは、一九八〇年代アメリカにおいてであった。以後、アメリカと韓国で何度もお会いしている。韓国の雑誌で対談をしたこともあり、一緒に講演をしたこともある。私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)


要は、古典的な丸山真男の言う日本の学問の専門領域の閉鎖性(タコツボ化)」は是正されるどころかいっそうタコツボインテリが跳梁跋扈するようになっているのじゃないかね、そう思わざるをえないな。

タコツボ概念の基本はネット上にいくらでも落ちているので、少し別の角度からの丸山の発言、「タコツボ内部には自由がある」を掲げよう。

自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。

 ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。

 自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。

 人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」)

ツイッターにたくさんあるクラスタってのは明らかにタコツボ村だな。で壺内でとってもジユウなんだろうよ。あの衆愚生成装置のなかの細分化されたクラスタで。

かれらも自分の財布にはとっても関心あるようだが、国の財布にはゼーンゼン関心ないようだがね、ま、文学教師だったらしょうがないけど、ーー少しまえ内田樹やら想田和弘や田中純やら堀茂樹やら、もっとひどいのになると…なんだっけな、名前わすれちまったよ、三田の編集長やってたらしいカトリック教師だけど…だいたい慶応ってのは掛け算割り算できなくても教授になれるらしいなーーこういった連中らにあきれ返ったことあるけどさ、政治学者や社会学者までなんであんなアホなんだろ、とくに立憲とか共産とか言ってる奴ら。たとえばチガヤっていうのいるけどさ、なんであんなに吹っ飛んでんだろ?ナーンニモ知らないんだろうよ、政局は好きらしいが政局ってのは政壺にしたらどうだろ?

ま、でも国と家計のちがいはあるよ、国には徴税権があるからな。これだけだ、違いは。東北大震災で「ワズカ」11.6兆円借金して、それを返すためにきみらは所得税上げられて25年払いしてんのぐらい知ってるかい? 






まだ15年あるんだぜ。でコロナ震災でいくら借金するんだろ、何年かけて国民は返すんだろ? ま、学者でさえ玉手箱派ばっかりだとな、衆愚がそうなのはしょうがないがね。




浅田が2年前こう言っていたけれどさ。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞)

この「横のつながり」というのは、ラカン派が大他者の時代から大兄弟の時代へ(資本の言説の時代へ)という移行に伴う現代の症状でもあるけれど、この時代は「小さな大他者たちのマヌケ倫理委員会」の連立があるからな。とくに日本においては多数のムラの連立と排除の症状が覿面に目立つようになっているのは明らかだ。裸の王様のデマゴーグを中心にしたその同盟者たちの多々のムラ社会連立だーー、《一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者》(クンデラ『不滅』)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)