遡及性によって引き起こされるリビドー。[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ](フロイト、フリース宛書簡 Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97)
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ーーという文に昨日初めて行き当たった。
この文はいろいろ応用できる。たとえば、なぜフロイトラカン派において「リビドーの固着 Fixierungen der Libido 」(享楽の固着 fixations de jouissance) が、臨床的には「リビドー=享楽」自体より重要視されるのかについて驚くべき簡潔さで答えてくれる。「先ず残滓が分かっていればいい」で記した内容はそのひとつである。
リビドーと享楽は同義であり、「遡及性によって引き起こされる享楽」と言ってもよい。
コレット・ソレールは、欲動の現実界の穴Ⱥに対する最初のbouchon (穴埋め栓)ーー原象徴化シニフィアンS(Ⱥ) 、あるいはS2なきS1[S1 sans S2]ーーについてこう言っている。
………
さて、ここではこれらにこれ以上深入りせず、今まで引用してきた遡及性にかかわる文献群を並べておくだけにする。「今まで引用してきた」と言っても、この2年ぐらいは引用していないはずなので、老齢の脳軟化症進行に歯止めをかける目的もある。 |
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潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサLorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
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次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。
なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン, S4, 28 Novembre 1956)
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人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)
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原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的(遡及的)にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959 )
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原初は最初ではない
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快自我の過程は原初である。どうしてそうでないわけがあろう? われわれは快自我を考え始めるやいなや、それは明らかに原初である。だがそれはたしかに最初ではない。Le processus est peut-être primaire - du Lust-Ich – et pourquoi pas ? Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. (ラカン, S20, 13 Février 1973)
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原快自我 primitiven Lust-Ichs
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乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚の源泉としての外界Außenweltを区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自己身体器官seine Körperorganeに他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。
感覚総体 Empfindungsmasse からの自我の分離Loslösung des Ichs ーーすなわち「非我Draußen」や外界Außenwelt の認知――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理 Lustprinzip が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛 Schmerzと不快感 Unlustempfindungenである。
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こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我 Draußen と対立する「純粋快自我 reines Lust-Ich」を形成しようとする傾向が生まれる。この「原快自我の境界 Die Grenzen dieses primitiven Lust-Ichs]は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体(対象Objekt)であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)
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ここで先に掲げたロレンゾに敬意を表して再掲しよう。
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潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサLorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
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そしてドゥルーズ=プルーストを掲げておこう。
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潜在的なものは、リアルなものには対立せず、ただ現勢的なものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性réalitéを保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「現勢性なきリアル、抽象性なきイデア」、そして虚構なき象徴性。
Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .(ドゥルーズ『差異と反復』1968年) |
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《現勢性なきリアル、抽象性なきイデア Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)――このイデア的リアル、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的回想の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的回想le souvenir involontaireは、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第5章、第2版 1970年)
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ドゥルーズが「芸術のシーニュ signes de l'art」を至高のものとするのは、この理由である。
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ひとが失う時 Temps qu'on perd、失われた時 temps perdu、ひとが再び見出す時 temps qu'on retrouve、見出された時 temps retrouvé(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第1章、1970年)
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① ひとが失う時 =社交のシーニュ
② 失われた時=愛のシーニュ
③ ひとが再び見出す時=感覚的シーニュ
④ 見出された時=芸術のシーニュ
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社交のシーニュ signes mondains の神経的興奮、愛のシーニュsignes amoureux の苦悩と不安。感覚的シーニュ signes sensibles の異常な歓び(しかし、そこではなお、存在と無との間で存続して いる矛盾として、不安が現われている)。芸術のシーニュ signes de l'art の純粋な歓び。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
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仕事をし芸術作品を作らないで、なぜ時を失い、社交の人間、恋をする人間でなくてはならないのか
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失われた時とは、単に、過ぎ去る時のみではない。存在するものを交替させ、過去のものを無くしていくような時のみではない。それはまた、人が失うところの時である(仕事をし、芸術作品を作らないで、なぜ時を失い、社交界の人間、恋をする人間でなくてはならないのか pourquoi faut-il perdre son temps, être mondain, être amoureux, plutôt que de travailler et de faire œuvre d'art ?)。そして、見出された時とは、第一に、失われた時のなかで見出され、我々に永遠のイメージを与える時である。それはまた、絶対的に本源的な時 temps originel absolu ・芸術のなかに確認される真の永遠 véritable éternité qui s'affirme dans l'art である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
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SNSなどで芸術のお話をしている人たちは社交の人間にすぎない。
先に掲げた芸術のシーニュをめぐるドゥルーズ文は、ジャック=アラン・ミレールの次の文に即座につながる。
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美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(Jacques-Alain Miller, L'inconscient et le corps parlant、2014)
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すなわち、本質的な美は最初の「現実界の穴埋め栓 bouchon du réel」(ソレール、2009)なのである。重要なのは穴埋め栓には必ず現実界の残滓が生じることである(フロイトはこれを「リビドー固着の残滓 Reste der Libidofixierungen」と呼んだ)。
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現実界、すなわちトラウマ界である。
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美には傷以外の起源はない Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
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傷 blessureとある。バルトを引用しよう。
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(温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、(プンクトゥムとしての)いかなる傷 blessure もないのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第30章)
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プンクトゥム/ストゥディウムについては、直接にバルトからではなくミレールを引こう。
ーーもっともバルトのプンクトゥムはこれだけではない➡︎「二つのプンクトゥム 」。
傷 blessureとは身体の記憶でもある。 |
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私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
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ラカン派がトラウマを身体の出来事というのはこの意味である。
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享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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そして身体の記憶=身体の出来事としてのトラウマは、喜ばしいトラウマもある。
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PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
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最後に、美のシーニュは、その効果として「遡及性によって引き起こされるトラウマ」を顕現させる、と言っておこう。
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