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2020年5月2日土曜日

夜這いの原義


此八千矛神、将婚高志国之沼河比売、幸行之時、到其沼河比売之家、歌曰、

夜知富許能(やちほこの)
迦微能美許登波(かみのみことは)
夜斯麻久爾(やしまくに)
都麻麻岐迦泥弖(つままきかねて)
登富登富斯(とほとほし)
故志能久邇邇(こしのくにに)
佐加志売遠(さかしめを)
阿理登岐加志弖(ありときかして)
久波志売遠(くはしめを)
阿理登伎許志弖(ありときこして)
佐用婆比爾(さよばひに)
阿理多々斯(ありたたし)
用婆比邇(よばひに)
阿理加用婆勢(ありかよばせ)
多知賀遠母(たちがをも)
伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)
淤須比遠母(おすひをも)
伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)
遠登売能那須夜(をとめのなすや)
伊多斗遠於曾夫良比(いたとをおそぶらひ)
和何多多勢礼婆 比許豆良比(わがたたせれば ひこづらひ)
和何多多勢礼婆 阿遠夜麻邇(わがたたせれば あをやまに)
奴延波那伎奴(ぬえがなきぬ)
佐怒都登理(さのつとり)
岐芸斯波登與牟(きぎしはとよむ)
爾波都登理(にはつとり)
迦祁波那久(かけはなく)
宇礼多久母(うれたくも)
那久那留登理加(なくなるとりか)
許能登理母宇知(このとりもうち)
夜米許世泥(やめこせね)
伊斯多布夜(いしたふや)
阿麻波勢豆加比(あまはせずかひ)
許登能加多理(ことのかたり)
其登母許遠婆(こともこをば)





八千矛の  神の命は
八島国  妻枕(ま)きかねて
遠遠し  高志の国に
賢(さか)し女を  ありと聞かして
麗(くは)し女を  ありと聞こして
さ婚(よば)ひに  あり立たし
婚ひに  あり通はせ
太刀が緒も  いまだ解かずて
襲(おすひ)をも  いまだ解かねば
をとめの  寝(な)すや板戸を
押そぶらひ  わが立たせれば
引こづらひ  わが立たせれば
青山に  鵺(ぬえ)は鳴きぬ
さ野つ鳥  雉(きぎし)はとよむ
庭つ鳥  鶏(かけ)は鳴く
心痛(こちた)くも  鳴くなる鳥か
この鳥も  打ち止めこせね
いしたふや  天馳せ使
ことの  語りごとも  こをば


「夜這い」で検索しても、前々回のようにすこぶるお気に入りのGIFは見出せなかったが、少なくともも吉岡実的味わいのあるーー《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》ーー次のものを貼っておこう。







「つままぎ」と「よばひ」
「妻覓ぎ」という古語は、一口に言えば求婚である。厳格に見れば、妻探しということになる。これと似た用語例にある語は「よばふ」である。竹取物語の時代になると、すでに後世風な聯想のあったことが見えているが、やはり「呼ぶ」を語原としているのである。大きな声をあげて物を言うことである。つまりなのる」というのと、同義語なのである。名誉ある敵手の出現を望む武士の、戦場で自ら氏名を宣する形式を言うことになってしもうたが、古くは、もっとなまめかしいものであった。 

人の名は秘密であった。男の名も、ずっと古くは幾通りも設けておいて、どれが本名だかわからなくしたものがあった。大汝命などの名の一部分の意義は、大名持すなわち多数の名称所有者の意であって、名誉ある名「大名」を持つという意ではないようだ。事実いろいろの名を持った神である。名を人格の一部と見て、本名を知れば、呪咀なども自在に行うことができるものと見たところから、なるべく名を周知させぬようにしたのである。男はそれではとおらぬ時代になっても、女は世間的な生活に触れることがすくなかったため、久しく、この風は守りおおせたものである。平安朝の中末のころになっても、やはりそうであったようである。

万葉(巻十二)に「たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか」という歌のあるのは『あなたは、自分の名も家も言わないじゃありませんか。あなたがおっしゃれば、母が私によびかける私の名をば、おあかしも申しましょうが、行きすがりの人としてのあなたを、誰とも知らずに申されましょうか。』というのである。兄弟にも知らせない名、母だけが知っている名――父は知っているにしてもこうした言い方はする。しかし、母だけの養い子の時代を考えると、父母同棲の後もそんなこともなかったとは言えない――その名を、他人で知っているというのは夫だけである。女が男に自分の名を知られることは、結婚をするということになる。だから、男は思う女の名を聞き出すことに努める。錦木を娘の家の門に立てた東人とは別で、娘の家のまわりを、自身名と家とを喚うてとおる。これが「よばひ」でもあり「名告り」でもある。女がその男に許そうと思うと、はじめて自分の名をその男に明して聞かすのであった。 

こうして許された後も、男は、女の家に通うので、「よばふ」「なのる」が、意義転化をした時代になっても、ある時期の間は、家に迎えることをせない。これは平安朝になってもそうである。だからどうしても、長子などはたいてい極の幼時は、母の家で育つのである。古くから祖の字を「おや」と訓まして、両親の意でなく「おっかさん」の意に使うことになっているのは、字は借り物だが、語には歴史がある。母をもっぱら親とも言うのは、父に親しみの薄かった幼時の用語を、成長後までも使うたためである。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」初出1924年)



もちろんこの「よばひの原義」は折口解釈によるものだが、現在の国文学者のあいだでも(ネット上でいくらか探る限りでは)ほぼコンセンサスになっているようにみえる。

※付記

恋の原義
こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


➡︎ 「リルケとニーチェの乞い lust」