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2020年5月9日土曜日

ヒステリーと自閉症は共存する

質問をもらっているが、「話す主体はみなヒステリー」と「人はみな妄想する」つまり「人はみな精神病」とはまったく矛盾していない。

この思考はジャック=アラン・ミレール の「普通の神経症」概念の核心のひとつである。

今、私は思い起こしてみる。あの時(1998年)、私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病 la psychose ordinaire」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

Je peux maintenant réfléchir aux raisons pour lesquelles à ce moment-là j'ai ressenti la nécessité, l'urgence et l'utilité d'inventer cette façon de parler - la psychose ordinaire.  Je dirais que c'était pour esquiver le caractère binaire rigide de notre clinique - la névrose ou la psychose.

(…)我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・心理療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「それで、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。

[…] notre clinique avait un caractère essentiellement binaire. Résultat : durant des années, on voyait des cliniciens, des analystes, des psychothérapeutes se demander si leur patient était névrosé ou psychotique. Lorsque vous receviez ces analystes en contrôle, vous pouviez les voir revenir, année après année, parler de leur patient x et si vous leur aviez demandé : « Avez-vous vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? », ils auraient dit : « Non, je n'ai pas décidé pour le moment. » Et ça continuait ainsi pendant des années. Ce n'était clairement pas une façon satisfaisante de considérer les choses. (J.A. Miller « Effet retour sur la psychose ordinaire » ; 2009)


こういったことは、中井久夫も既に言っている。

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

これらは、フロイトが既に言っていることでもある(フロイト自身の文は➡︎参照)。


症状の二重構造
フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性理論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、(現勢神経症としての)《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(症例ドラ、1905)である。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 2002


たとえばジャック=アラン・ミレール はこう言っている。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010)

この穴とはトラウマのことである。

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


ここで何度も掲げているミレール 2005セミネール冒頭の図を再掲しよう(象徴界/現実界の項はわたくしがつけ加えた)。




右項に穴とある。現実界の症状であるサントームは、身体的なトラウマの症状なのである。

右項に「言存在 parlêtre」とあるのは自閉症=サントーム(享楽自体の症状)ということである(もっともラカン派の自閉症はDSM における自閉症とは大きく異なるので注意しなければならない)。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet。そして「主体」という語は引用符で囲まれなければならない、疑いもなく「言存在parlêtre」という語の場に道を譲るために。 (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001) 
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマtroumatismeの谺を見出す。…サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽を示す。
le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu.[…] Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)


したがって、症状の二重構造観点からは次のようにも図示できる。




ヒステリーとは、フロイト用語では「転換ヒステリー Konversionshysterie」と「不安ヒステリー Angsthysterie」である。このふたつは、フロイト用語において、後期抑圧にかかわる心的な「精神神経症 Psychoneurose」の代表的な症状である。そしてその地階には、原抑圧にかかわる身体的な「現勢神経症 Aktualneurose」 がある。現勢神経症の代表的症状のひとつに「不安神経症 Angstneurose」がある。


不安神経症とは事実上、ラカンのサントームである。定義を見比べればそれはほとんど瞭然とする。
不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)
四番目の用語(サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)




先に戻れば、誰もがもつ自閉症的な穴に対する防衛として精神病、倒錯、神経症がある。精神病のさらに底部にある分裂病(統合失調症)自体、緊張病(緊張型分裂病catatonia)を除いて防衛としての妄想であるというのがミレールの捉え方である。日本において分裂病研究の第一人者であろう中井久夫も、《ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう》(「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)と言っている。

言語を使用する人間はみな欲動の身体に対して防衛している。欲動の身体、すなわち欲動の現実界である。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel uniquement pour autant que le réel c'est ce que dans la pulsion je réduis à la fonction du trou. …原抑圧との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、フロイトの夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

結局、簡潔に言えば、次の二文にすべては収斂する。

我々の言説(社会的結びつき lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(Jacques-Alain Miller,  Clinique ironique, 1993)
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)



以上。