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2020年5月8日金曜日

愛と欲望の理論


われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき Gefühlsbindungen)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) 

--ここでの集団とはカップルから始まる。そしてこの愛の結びつき(感情的結びつき)がラカンの言説のことである。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的結びつき lien social の機能を作り上げるものである。[Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social.] (Lacan, ミラノ講演、1972)
ラカンが四つの言説と呼んだものの各々は、変動する愛がある。それは、諸言説のダイナミズムにおけるエージェントの変動のように機能している。そして、ラカン以後、われわれが「社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。(Jacques-Alain Miller , A New Kind of Love)

もっとも愛の結びつきは、「愛と欲望の結びつき」としたほうがよいかもしれない。

リーベ Liebe は、愛 amour と欲望 désir の両方をカバーする用語である。もっとも人は愛の条件と性的欲望の条件の分離を観察する場合がある。ゆえにフロイトは、欲望する場では愛することができず、愛する場では欲望することができない男のタイプを抽出した。(Jacques-Alain Miller、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour, 1992)

これらを受け入れなら、ラカンの言説理論とは愛と欲望を思考する理論としてよいだろう。
愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………
われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…
次の前提を見失わないようにしよう。ラカンが構築した四つの言説の各々は、主人と奴隷、教師と生徒、ヒステリーと主人、分析家と分析主体(被分析者)である。これは歴史において証明されている。いかに多くの男女のカップルが、この四つの関係を元に結びついてきたかを。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

※参照:「愛のビジネス」の時代


次の四つの言説概観図は『三人目の女 La Troisième』(1974)で示されている図を並べ変えたものである。






…………

少し前に示したが、愛と欲望の理論のヴァリエーションとしてボロメオの環を使ったミレールによる提示がある。


リビドーの三相 Troi avatars de la libido
想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー 。libido dans lê resistre de l'imaginaire. […] la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.
象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー 。libido en fonction du registe du symbolique. […] à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique
現実界の審級、享楽としてのリビドー 。la libido en tant que iouissance oui est du reeiste du réel  (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995)



ーーリビドー とはフロイトにとって「愛の力 Liebeskraft」(リーベの力、つまり愛と欲望の力)のことである。


愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)


ここでラカンは「欲望の原因としての対象a」としているが、ミレール は、1999年の段階だが、女性の場合は「狂気の愛amour fou」だとしている。これはもちろんリーベの対象としての被愛マニア(穴Ⱥ)にかかわる。もっともラカンには穴埋めとしての対象aだけでなく、穴としての対象aもある、ーー《l'objet(a), c'est le trou》(Lacan、S16, 1968)



avoir プラスマイナスとはもちろん,《au niveau de l'avoir, précisément du pénis réel》である。

Ⱥ についても具体的に言えば、究極的には「黒い夜 la nuit noire」のことであるだろう。

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. ](マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)



デュラスのとても美しい文をラカン派的に翻訳するとこうなる。

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)




なお先に掲げたミレールの「ペニスプラスマイナス図」はいくつかの項を抽出しただけであり、全体は次の通り。







「享楽の様式modes-de-jouir」の項の女性側にあるravageについてだけ注釈の断片を掲げておこう。

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。
Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)




以上、愛の理論とは究極的には穴の理論、黒い夜の理論である。

去勢=穴
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)[去勢]を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
享楽の名=去勢・リビドー 
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
享楽の名le nom de jouissance…それはリビドーというフロイト用語と等価である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
穴の名=欲動の現実界(リビドー )
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)
リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, […] ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. ( Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)