言説基礎構造図の基本的読み方はこうである。
話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。
他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)
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ところでラカンには次のヴァリエーション図がある。
「見せかけSemblant 」とはシニフィアン(シニフィアンの主体)ということである。
見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
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「享楽Jouissance」は次の最初の意味での「大他者の享楽」のことである。
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において…、
①人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、…大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。…
②しかし人が享楽から始めれば、大他者は他の性[Autre sexe]である。(Jacques-Alain Miller,Les six paradigmes de la jouissance,1999)
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ーーラカンにおいて、言説とは「社会的結びつきlien social 」という意味であり、言説理論の大他者の享楽は①に相当する(②についてはここでは触れない)。
さらに上のヴァリエーション図が示された半年後、次のようにもある。
この図の基底にはたしかに根源的な意味での身体がある。コントロールできない身体である。それは真理でも仮象でも享楽でも剰余享楽でもない。Le ground […] Il s'agit en effet du corps avec ses sens radicaux sur lesquels il y a aucune prise. Parce que c'est pas avec la vérité, le semblant, la jouissance ni le plus de jouir (Lacan, S19, 21 Juin 1972)
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たとえばPatrick Valas版(Staferla版)のアンコール第1版には次の図が示されている。
ここでの la jouissance du corps de l'Autreは、大他者の身体の享楽ではなく、「大他者という身体の享楽」と訳すべき内容をもっている。
大他者の享楽、大他者という身体の享楽 la jouissance de l'Autre, du corps de l'Autre(ラカン、S20, 21 Novembre 1972)
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つまり大他者と身体は重複表現である。
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大他者は身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
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大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
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ところで、ジャック=アラン・ミレールは言語理論に触れないままでだが、人の最も基本的なあり方として次の図を提示している。
これを言語構造図に当てはめれば次のように示せる。
したがって前回示した次の図は、上図のヴァリエーションに過ぎない。