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2020年5月4日月曜日

モンテーニュの享楽、カトゥルスのリビドー


青空文庫にモンテーニュのエッセイが入庫されているので、少しずつーーときにネットに落ちていた原文を参照しながら、ーー飛ばし飛ばし読んでいるのだが、むかしから小林秀雄などによって示唆されているように、第3巻の第5章が1番面白い。

なんとラカン語彙がふんだんに散りばめられたこんな文章だってある(一部訳語を変えている。青空文庫版は《恋とは結局、欲しいと思う人を享楽しようとする渇きにほかならない。またウェヌスとは自分の器をからにする快楽にほかならない》である)。

愛は欲望された主体を享楽しようとする渇きに他ならない。性行為は自分の器を空にする快楽にほかならない。 l'amour n'est autre  chose, que la soif de cette jouyssance en un subject desiré :  Ny Venus autre chose, que le plaisir à descharger ses vases (モンテーニュ『エッセイ』第五章「ウェルギリウスの詩句について」)

この「渇きsoif」というのは、フロイトの定義上では、明らかにリビドーだ。

人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」(渇き)という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)

だからモンテーニュの《愛は欲望された主体を享楽しようとする渇きに他ならない l'amour n'est autre  chose, que la soif de cette jouyssance en un subject desiré》というのは、「愛は欲望された主体を享楽しようとするリビドーに他ならない」としたっていいわけだ。

で、ラカン派においては享楽=リビドーだ。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

フロイト においては「リビドー=愛欲動=性欲動」でもある。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ピッタンコだね、モンテーニュの使う享楽はフロイトラカンの(広義の)享楽=リビドーに。

リビドーという語は、紀元前84年生まれのラテン語詩人カトゥルスだって次のように使っている(これもモンテーニュから)。

我らのリビドーが満たされるや忽ちかつての誓いを反故にす。postquam cupidæ mentis satiata libido est, Verba nihil metuere, nihil perjuria curant.(ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullus)


現在の仏語では、享楽とは性的オーガズムが最も基本的な意味のひとつ。

たとえば女性は享楽--オーガズムとしておきましょうーーに達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する条件おいてのみということが起こります。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ享楽に達するということが。[Par exemple, il arrive qu'une femme ne puisse obtenir la jouissance – disons, l'orgasme – qu'à la condition de s'imaginer, durant l'acte lui-même, être battue, violée, ou être une autre femme, ou encore être ailleurs, absente.](J.-A. Miller,  On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)

これはラカンやハイデガー的にも、次の定義に「ある範囲で」則っていると言ってよい。

享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
古井:(ハイデガーの)エク・スターシスek-stasisとは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」2001 年)

あるいは。

イポリット)動物は交尾するとき死に委ねられていますが、これを知りません。  

ラカン )一方人間はこれを知っています。これを知りこれを実感します。  

イポリット)それは、人間は自殺するということにまでいたります。人間は他者を介して自身の死を望みます。Cela va jusquà ceci, que c'est lui qui se donne la mort. Il veut par l'autre sa propre mort.  

ラカン )愛は自殺の一形態 l'amour est une forme de suicideであることでわれわれは合意します。 (ラカン、S1、07 Avril 1954)

もっともこれらの享楽は厳密な意味では剰余享楽(穴埋め享楽)であり、ラカンの享楽の思考は次の三段階がある(三種類の享楽)。




ラカンの思考においては、生きている存在には原享楽は不可能(あるいは愛は不可能)なのである。



愛は不可能である
愛は不可能である。l'amour soit impossible (ラカン、S20, 13 Mars 1973)
エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
享楽は不可能である
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)



注記:・《大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps .》 (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
・《大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! 》(ラカン、S14, 10 Mai 1967)


最後に小林秀雄も引用しておくが、次のモンテーニュも第3巻第5章のモンテーニュである。

人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)