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2020年5月18日月曜日

アタルなるアンチニーチェ


権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに群衆Pöbelの値が騰貴してくる。そしてついには群衆の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー。
Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」) 

ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、[allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem」…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民 Gesindel のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気![Ach, Ekel! Ekel! Ekel! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」手塚富雄訳)


『ツァラトゥストラ』の優れた新訳で評判高い佐々木中は上の文をどう思っているんだろうな。次のツイートをしているが。






SNSによるポピュリズム的抗議行動の限界を佐々木中はまだ悟っていないのかね。


ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)
ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)


「構造自体に刻印されている致命的亀裂 fatal flaw inscribed into the structure as such」をまったく見ないで騒ぎ立てるのがポピュリズムであり、わたくしに言わせれば、左翼やらリベラルならぬ「下翼」なんだがな(参照:下翼の定義)。


たとえば、次のように言う辺見庸のほうが佐々木中よりは100倍ぐらいはニーチェ的だよ。

祝ファシスト連戦連勝! 辺見庸 2020年05月13日
○500万件の虚妄

東京高検検事長の定年を延長する閣議決定を受けて、ファシストどもが
検察庁法改正案の審議を強行。これをきっかけに"ツイッター式抗議デモ"
がはじまり、500万件をこえる書き込みが殺到したよしいくぞう。だから
どうしたといふのか。

安倍、平気の平左、屁のカッパ。だいたい、奇妙なマスクをしたこのおと
こをここまでのさばらせてきたのはだれだ?「コクミン」とかいふ意思な
き遵法主義集団と猪八戒ら広義のファシスト補完勢力だろうが。

安倍の専制をゆるしてきた羊たちは、「安倍のジンギスカン」でパクパク
食われて当然。安倍は端からケンカ腰。改憲本気汁たらーりたらーり。猪
八戒など豚シャブでぺろりだぜよ。

で、このコロナ・パンデミックにありても、ある日(いつかの金曜日の)
ある朝、絶賛死刑執行の予感。


現在の佐々木中は蛸壺インテリのひとりでしかないように見えるがね。ドゥルーズ やらフーコー  、ラカンやらと言っている割にはオベンキョウが足りないよ。すこぶる経済音痴なのは、ま、やむ得ないこととして情状酌量するとしても。

そもそもSNS時代の下翼の抗議運動はほとんど常にこれで終わってるのを、この今になってもまさか知らないわけではあるまい?

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

佐々木中は中井久夫を敬愛してるんじゃなかったかな。で、中井久夫は佐々木中の症状だってすでに指摘してるんだがね。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)


ーーああ、あの文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、

見事な文体を駆使する佐々木中は、現代日本において最も優秀な人材のひとりなのは間違いないのだから、はやく蛸壷から抜け出してくれることを切に願うよ。