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2020年5月12日火曜日

衆愚左翼という財政的幼児虐待者たち


道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。ーー二宮尊徳


左翼ならぬ下翼がまた前回記した国民負担率について寝言を言っているが、「弱者のために」、あるいは「庶民のための政治を!」という長年の、経済なき道徳としてのスローガン自体が「弱者いじめ」となってしまっているということが、いまだもってまったく理解できない衆愚左翼を「下翼」と呼ぶ。

彼らの際立った特徴のひとつに国の台所事情にはまったく興味がないということがある。

われわれは日本の政府債務をGDP比や絶対額で毎日のように目にして驚いているのだが、これらは日本人にとって何の意味も持たないのか、それとも数字が発表されるたびに、みな大急ぎで目を逸らしてしまうのだろうか。(トム・ピケティ『新・資本論』2011年)




「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味である。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

 「財政的幼児虐待」とは元々、いまここにいない「未来の他者への虐待」を言わんとしたことだが、日本の場合はそれだけではない。いまここに生きている若者たちがすでに、すくなくとも冷戦終結後の30年まえから引き続く「財政的幼児虐待の犠牲者」である。
本来的な政治とは、常に「未来の他者」を視野におさめつつ、現在、ここにいる公衆の合意に反しても理性を使用することを言う。

世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


たとえば環境問題に「真に」携わっている者たちはこのことをよく知っているはずである。

ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


だが「下翼」にはこう言ったことにまったく馬耳東風であり、批判しても何も始まらないのが最近つくづくわかってきた。あの衆愚集団は「存在しないかの如く扱う他ない」と、多くの経済学者たちはすでに見なしているようにさえ見える。