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2020年5月15日金曜日

いくらか開きかかった一筋の線

ジョークだよ、わからないのかな。とってもニブイのは知ってたけど、いくらなんでもな・・・

別ヴァージョンを記しておくよ。
…………

もしも汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死もいとわじ。Rimula, dispeream, ni monogramma tua est.(テオドール・ド・ベーズ Théodore de Bèze)

ーーテオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze,ユリウス暦1519年6月24日 - グレゴリオ暦1605年10月13日)は、フランスのプロテスタントの神学者であり、16世紀初期の宗教改革に大きな影響を与えた人物だそうです。有名人なんでしょうか、蚊居肢子はこの手の領野はまったく無知なのです。

とはいえ肝腎なのはキリスト教信者の女性の方がもしお祈りを捧げるならこういうお方にお祈りすることです。プロテスタントがオキライな女性信者の方だったらいくらか下品ですが次のものでも妥協します。



歴史的にみても今回のような危機の折には、必ず聖母マリア崇敬が復活したそうです。➡︎Turning to Mary in times of crisis  (Robert Fastiggi April 29, 2020)

でも公式には母性崇拝、女性崇拝を抑圧してきました。この抑圧を解き放つためには危機はよい機会なのでしょう。

いくら父なる神への篤信の仮面を被ったって、その本質は隠しようもありません。聖母マリアへの祈りとは、そのアンダーグランドには禍いの元である大地母神や月女神の怒りを鎮めることにあるのは瞭然としています。

女性の方々は仮面を脱いで世界における禍いの元としての女を露顕させて生き生きとした生を送るべきです。股の間に「世界の起源」を抱えている限りエヴァあるいは蛇であるのは避けがたいことです。そして股の間から生まれてきた男たちが女性神にひれ伏すのは当然です。

もっともあのラブレーは、女性器をガバッと見せられたら悪魔でも退散すると言っていますから誤解なきよう。最初は開きすぎない一筋の線で勝負しないといけません。

ここで上のテオドール・ド・ベーズの一筋の線といくらか生々しさのありすぎるルクセンブルクパッション版の中庸版を掲げさせていただきます。








上の図はラカンのセミネール10にある次の図の、Lucio Fontanaを使った蚊居肢流変奏です。




終生裂け目に囚われたルーチョ・フォンタナの偉大なる先駆者テオドール・ド・ベーズに敬意を捧げるための苦心の作です。




ラカンのトーラス円図にある(- φ) 、蚊居肢版フォンタナのいくらか開きかかった一筋の線と要するに次のようなことです。


享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
享楽の名le nom de jouissance…それはリビドーというフロイト用語と等価である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)





男というものはこういうものです。ジャコメッティだってデュシャンだってそうです。芸術家でなくたって同じです。始終謹直そうな男たちは単に抑圧しているにすぎません。抑圧ばかりしていると逆に何か奇態なことに発散させるようになり、しまいには豚の群に走りこむことなります。もちろん女性の場合もしかりです。





とはいえ、いくらか開きかかった一筋の線に死を捧げるつもりであっても、厄介なのはたとえば次の二つの相があることです。

我らのリビドーが満たされるや忽ちかつての誓いを反故にす。postquam cupidæ mentis satiata libido est, Verba nihil metuere, nihil perjuria curant.(ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullus)
わが器十分に長く太からざりしとせば彼女たちがものうげにそれを眺めたるも故なきにあらず。Si non longa satis, si non benè mentula crassa : Nimirum sapiunt vidéntque parvam Matronæ quoque mentulam illibenter.(プリアペア)


こうしてファルスは次のように言うのです。

女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…(ソレルス『女たち』)


他方、男は欠けるのです。何が欠けるかといえば、いくらか下品になりますからあまり言いたくありません➡︎「性交後の悲しみ」。要するに、仮にわが器十分に長く太くても、なぜか萎むのです。






穴栓をいくらしたって穴は埋まりません。

穴埋め栓としての現実界 le réel comme bouchon…。…現実界の無意識は閉じられた無意識なのである l'inconscient réel est un inconscient fermé. (Colette Soler, L'acte analytique dans le Champ lacanien 2009)

要するに「遡及性によって引き起こされる穴」が常に残存します。

遡及性によって引き起こされるリビドー。[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ](フロイト、フリース宛書簡 Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97)
リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, […] ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められる。…以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

こうしてファルスは「性関係はない」としつこく言い続けたのです。

穴埋め栓とは少しまえみたように固着(リビドーの固着・享楽の固着)です。リビドー の固着は別名「トラウマへの固着Fixierung an das Traumaともいいます。ラカン にとってトラウマは「穴ウマtroumatisme」です。要するに固着とは「穴への固着」です。

ここでは遡及性概念が最重要です。その前提で次のジル・ゲガーンを読みましょう。

結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


さて「性関係はない」の究極の理由がおわかりになったでしょうか?



エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

性関係が真に成就するためには、母なる大地、沈黙の死の女神との融合しかありません。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)