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2020年6月22日月曜日

アンチ水っぽいミルク


愛 Liebe という語がこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきものと思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた 。(トーマス・マン『魔の山』1924年)


最初に伊藤比呂美さんに触れた1980年前後当時は、アンチ水っぽいミルクだと感じたね、それがとても新鮮だった。



とてもたのしいこと  伊藤比呂美

あの、
つるんとして
手触りがくすぐったく
分泌をはじめて
ひかりさえふくんでいるようにみえる
くすくすと
笑いが
あたしの襞をかよって
子宮にまでおよんでってしまう
(ひろみ、
(尻を出せ、
(おまえの尻、
と言ったことばに自分から反応して
わ。
かべに
ぶつかってしまう
いたいのではない、むしろ
息を
洩らす
声を洩らす
(ひろみ
とあの人が吐きだす
(すきか?
声も搾られる
(すきか?
きつく問い糺すのだ、いつもそうするのだ
(すきか? すきか?

すき

って言うと
おしっこを洩らしたように あ
暖まってしまった



小田急線喜多見駅周辺  伊藤比呂美

踏切を渡って徒歩10分のアパート
の部屋に入る
何週間か前に踏切で飛びこみがあった
踏切に木が敷かれてある
木に血が染みていた
線路のくぼみの中に血のかたまりと
臓器のはへんらしいものが残っていた

わたしたちは月経中に性行為した

アパートの部屋に入るとラジオをつける
わたしは相手の顔にかぶさって
顔のすみずみからにきびを搾った
剃りのこした頬のひげを抜いた
背中を向けさせた
背中にほくろ様のものがある
もりあがっているから分かる
搾ると頭の黒い脂がぬるりと出る
みみのうらも脂がたまり
搾るとぬるぬるぬるぬると出た

はでけをかんで引くと抜ける
わたしはつめかみだ
つめがない
つめではけがつかめない
はでやるとかならず抜ける
男の頬がすぐ傍に来るいつもつめたい
ひげが皮膚に触れた
ひげは剃ってある
剃りあとを感じる
前後に性行為する

荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を行き過ぎる世田谷区の草木を見ているこの季節はようりょくそが層をなしている飽和状態まで水分がたかまる会えばたのしさを感じるだから媚びて手を振るが性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である

性行為に当然さがつけ加わった
踏切を渡って駅に出る
もしかしてぬるぬるのままの性器にぱんつをひっぱりあげて肉片の残る喜多見の踏切を渡ったかもしれないのである
水分はあとからあとから湧きでて
ぱんつに染みた

…………


最近はどんな夫も金太郎飴だと言ってるようだが。


伊藤さん自身は、30代で“ちゃぶ台をひっくり返す”ように家庭を壊している。「“焼け野原”へと踏み出した私から見ると、どんな夫でも“金太郎飴”。どこを何回切っても同じようなもの」という名言にドッと笑いが起きた。「一緒に何年か暮らすと、どんな男も同じ夫性を持つし、こっちも同じ妻性を持つ。こんなことなら、最初の夫でよかったと思ったりする(笑)」(「人と関わらなくてもいい」「どんな夫も“金太郎飴”」伊藤比呂美『女の一生』の教え, 2015年)


ーー最初の夫は、西成彦さんであり、前回かかげた映像のなかの次の方だろう。





西成彦氏の最近の画像は次のものがある。




ーーとっても渋い初老の元大学教師で、よりを戻したらどうだろうね、いやいや西氏には奥さんがいるだろうからムリか。



話を戻して、伊藤比呂美さんが「一緒に何年か暮らすと、どんな男も同じ夫性を持つし、こっちも同じ妻性を持つ」と言っていることは次のようなことだろう。


完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な発言がある、「男の症状は女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage だ」と。この発言は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではないのだ、女性解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。

現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、「孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998年)



ラカンから直接引いておこう。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!
[« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](ラカン、S22、21 Janvier 1975)
女はすべての男にとってサントーム である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場である。[une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage](ラカン、S23, 17 Février 1976)

ーーここでの症状とサントームは同じ意味であり、どちらも原症状ということである。

そして原症状としてのサントームは母の名のことである。

サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)

サントームはフロイトの固着(リビドーの固着・享楽の固着)のことである。

疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)

より具体的には次の文に収斂する。

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


フロイトは女拘束だけではなく、より直接的に母拘束とも言っている。


前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期は、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。

われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父をモデルにして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。
これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父との結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのだが。(フロイト『女性の性愛』1931年)

上にある《夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している》とは、少しわかりにくいだろうが、母なる原支配者・全能の原大他者に対する不快不満関係である。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)


人は受動的立場におかれれば能動的に反発する習性がある。乳幼児が母の乳首を噛むようになるのは、この最初の受動能動の天秤の左右の皿現象である。


カノコ殺し 伊藤比呂美

六か月経ち
カノコは歯が生えて
乳首に噛みつき乳首を噛み切りたい
いつも噛み切る隙をねらっている
カノコはわたしの時間を食い
カノコはわたしの養分をかすめ
カノコはわたしの食欲を脅かし
カノコはわたしの髪の毛を抜き
カノコはわたしにすべてのカノコの糞のしまつを強要しました
カノコを捨てたい
汚いカノコを捨てたい
乳首を噛み切るカノコを捨てるか殺すかしたい
カノコがわたしの血を流すまえに
捨てるか殺すかしたい


フロイトはこの母を原誘惑者とも言っている。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


もちろんこれらはフロイトラカンの観点ということであり、別の見方もあるだろうが、そうは言っても、男にとっても女にとっても原初の母との関係が根源的なものであるのは間違いない。セクシャリティの起源はそこにしかない。

原初の二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


だが母は原愛の対象であると同時に、原支配者・原誘惑者であり、フロイトラカン的にかつて自分の身体の一部であったものを取り戻す存在ーー両者とも貪り喰う母という意味をもつ表現を使っているーーという相は仮に保留しても、少なくとも母に対して受動的立場におかれるという意味で「不快の対象」でもある。

フロイトは最初期からこの観点を持っていた。 



私の見解では、セクシャリティ自体の領野において不快の独立した源泉がある。Meine Meinung ist, es muss eine unabhängige Quelle der Unlustentbindung im Sexualleben geben.(Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 171, Manuskript K、1896)
原初の不快の経験は受動性である。primäres Unlusterlebnis […] passiver Natur (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)


現在に至るまで日本ではまったく理解されていないようにみえるがーーあるいはジジェクなどが哲学的にこねまわした象徴界の裂け目に現れる享楽とは、ラカンの享楽と一面に過ぎないーー、ラカンの享楽とは何よりもまずこのフロイト起源の快原理の彼岸にある受動的不快である。


欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる「不快 」ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカンは一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)。すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose](J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


もっともフロイトにおいては次の相がある。

(少なくともある時期までの)フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。…それはモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998年)

ーー少なくとも1920年の快原理の彼岸以前のフロイトはこうであった。その後も躊躇いつつ歩んでいるいう意味で明言はしていない。

受動的不快あるいは受動的ポジションとはマゾヒズムのことである。したがってラカンは次のように言う。

大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ(母子)二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)


最初の文に「神の不安」とあるが、これは後年の発言から遡及的に言い直せば、「女というものの不安」である。

問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(ラカン、S23、18 Novembre 1975)