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2020年6月22日月曜日

愛は嘘という嘘

ボクは「愛は嘘」やら「愛はインチキ」のたぐいを連発してるけれど、愛がインチキであるだろうことにとっても苦手な人生を送ってきたから、そう書いているのであって誤解しないでほしいね。

技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )


だいたい愛はホンモノだと真摯に・深刻に思ったことがない人が、マガオで愛はインチキなんて連発しないよ。


自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。(……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


このあたりはメタ心理学の基本だと思うがね。愛はインチキなんて強調できる人は、ほとんどの場合、そばに愛する人、あるいは支えになってくれる人がいるからじゃないかね。


創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」)

ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間を自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)



すべて愛と呼ばれるもの Was Alles Liebe genannt wird
所有欲(貪欲)と愛 Habsucht und Liebe、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の衝動 Trieb なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者ーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物 Habe」が気がかりになっている者ーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛ーーそれは新しい所有権への衝迫 Drang nach neuem Eigenthum ではないか? 知への愛、真理への愛 Liebe zum Wissen, zur Wahrheit も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫 Drang の一切が、そうでないのか? ……

我々は古いもの、安全に所有しているものにしだいに退屈し、ふたたび手を伸ばすようになる。最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。そして遠くの海辺が所有欲を刺激する。所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなるのである der Besitz wird durch das Besitzen zumeist geringer。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものをわれわれ自身のなかへ取り入れ、変化させることによって維持しようとする。所有するとは、まさにそういうことだ。

所有への衝迫 Drang nach Eigenthum としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛 Liebe der Geschlechter である。愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…

われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛 Geschlechtsliebe のこういう荒々しい所有欲(貪欲)Habsucht と不正 Ungerechtigkeitが、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である。…

だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継続 Fortsetzung der Liebe がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求 habsüchtige Verlange がある新しい熱望と所有欲 neuen Begierde und Habsuchtに、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望 höheren Durste に道をゆずる、といった風の愛の継続である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情Freundschaftである。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)