フロイトとラカンの理論的核心をつなげて読むためには、「異者」(異物、異者としての身体)を通すととても鮮明になる。
以下、それを示そう。
以下、それを示そう。
ひとりの女は異者である。 une femme, […], c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
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この二文を翻訳すれば、「サントームは異者」となる。これはどういうことか。
フロイトの「異物 Fremdkörper」とは「異者としての身体」ということである。これは何よりもまず母の身体である。ここでもまたラカンから二文を並べよう。
子供はもともと母、母の身体に生きていた l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 。…だがこの母の身体 corps de la mèreは、異者としての身体 corps étrangerになる。(Lacan, S10, 23 Janvier 1963, 摘要訳)
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不快の審級にあるものは、非自我のなかに刻印されている。…非自我は異者としての身体、異物として現れる l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, […] le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt (Lacan, S11, 17 Juin 1964)
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ーーここにある異物fremde Objektとしての不快Unlustが享楽の対象としての対象aである。
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不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
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現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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なお、不快とは不安としての不快である。
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フロイトの観点では、享楽の不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。
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欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる「不快 」ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の信号l'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
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これはフロイトの次の文とともに読めば、とても明瞭になる。
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚の源泉としての外界Außenweltを区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自己身体器官seine Körperorganeに他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。
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感覚総体 Empfindungsmasse からの自我の分離Loslösung des Ichs ーーすなわち「非自我 Draußen」や外界Außenwelt の認知――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理 Lustprinzip が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛 Schmerzと不快感 Unlustempfindungenである。
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こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から分離し自我のそとに放り出しvom Ich abzusondern, es nach außen zu werfen,
、自我の異者で自我を脅かす非自我 fremdes, drohendes Draußen と対立する「純粋快自我 reines Lust-Ich」を形成しようとする傾向が生まれる。この「原快自我 primitiven Lust-Ichs」 の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体(対象Objekt)であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。 (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)
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一読瞭然で注釈するまでもないだろう。ラカンの享楽は「自己身体の享楽」のことであるが(参照)、この自己身体とは、乳児期、自己身体とみなしていた異者身体なのである。
ただし、上の文でフロイトは母の乳房を例に出しているが、より根源的な原喪失は胎盤(母胎)である。
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)
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不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章)
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繰り返せば、原症状としてのサントームは異者であり、喪われた身体、喪われた母なる異者身体にかかわる。
シンプルな形で言えば、サントームは母の名である。喪われた母の名である。
シンプルな形で言えば、サントームは母の名である。喪われた母の名である。
サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
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フロイトはモノを異者と呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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繰り返しになるが、確認しておけば、喪われた対象は対象aのことである。
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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この不気味な異者が反復強迫を生む。
われわれはエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es[…] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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したがってジャック=アラン・ミレールはサントームを次のように定義する。
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1=固着を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
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固着とあるが、これは原抑圧としての固着(リビドーの固着・享楽の固着)のことであり、身体的なものをエスのなかに置き残すことである。そして、この置き残された身体が「異者=異者としての身体=異物」である。
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
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欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者fremdのようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』1915年)
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ーー「暗闇に蔓延る異者」とあるが、この時期のフロイトにはまだエス概念はない。だが暗闇とは間違いなくエスのことである。上に引用した文を再掲しておこう。
われわれはエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es[…] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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エスのなかに居残った異物としての症状、これが原症状としてのサントームである。冒頭の「サントームは異者である」がこうして確認できた筈である。異なった相からの確認は「暗闇に蔓延る異者としての女」を見よ。
人はみなーー男も女もーーこの異者としての女をもっている。
以上、欲望も愛も異者に対する防衛である。
なお、サントームは大きく二つの意味がある。異者としての原症状とそこから距離を置く防衛としてのサントームである。後者についてはここでは割愛した(参照:二種類のサントームについて)。
人はみなーー男も女もーーこの異者としての女をもっている。
例えばジャック=アラン・ミレールはこう言っている。
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サントームは現実界であり、かつその反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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これは「原症状は異者としての女であり、その女の反復である」と翻訳できる。女というのは、ここでの文脈でわかるように《母としての女 la femme en tant que mère》(ラカン, S 17, 1970)である。
よりフロイト的にいえば、「原症状はトラウマとしての異物であり、かつその反復強迫である」となる。
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これも確認しておこう。
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◼️異物=トラウマ=モノ=現実界
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トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
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現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(MILLER、L'Être et l'Un, 2011)
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フロイトはモノを異者と呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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現実界は書かれることを止めない(反復強迫)。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)
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◼️モノ(異物・異者・異者身体)=穴=トラウマ=享楽=サントーム
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現実界は穴=トラウマを為す。[le Réel…ça fait « troumatisme »](ラカン, S21, 19 Février 1974)
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モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (J.-A. MILLER, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
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一般的にはサントームは穴(穴としての享楽)と等置される。穴、すなわちトラウマであり、トラウマの反復強迫である。
だがこの穴=トラウマとはより具体的には、原初に喪われた母なる身体の穴=トラウマなのである。
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◼️人はみな妄想する:トラウマ=モノ=穴=異物に対する防衛
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「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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我々の言説(社会的結びつき lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(J.A. Miller, Clinique ironique, 1993)
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明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)
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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
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病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試みHeilungsversuch・再構成Rekonstruktionである。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)
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以上、欲望も愛も異者に対する防衛である。
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
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欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
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欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (Lacan, AE207, 1966)
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愛はイマージュである。l'amour ; soit de cette image,(Lacan, AE193, 1965)
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愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
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愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけ[i (a)]とは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
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自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)
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自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)
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