ーーこれはひとつのモデル図であり、種々の変奏が可能である。
ここではいくらか具体的にこの図の意味するところをまず示す。
原症状としてのサントーム、つまり原抑圧としての固着は、身体の上への刻印という意味である。
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症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30. Nov. 1974)
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フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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「固着 Fixierung」とは「身体の上への刻印」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
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より具体的には、固着とは幼児の身体から湧き起こる欲動を飼い馴らす母による徴、そしてその徴では十全には飼い馴らされないことによる身体的残滓がある。これは一般的に原象徴化の失敗と呼ばれる。この残滓をフロイトは「暗闇に蔓延る異物 wuchert dann sozusagen im Dunkeln[…]fremd 」(1915)と呼んだ。
さて固着は身体のどの部分になされるのか。
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フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。この同じ領域が享楽が位置付けられる場である(口、肛門、性器、肌、目、耳)。…
享楽は母なる大他者のシニフィアン(≒固着)によって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
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これ以外にも母による身体の上への刻印の意味するところは、《漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚》(中井久夫「発達的記憶論」)等々がある。中井久夫は母胎内の記憶や刻印の話までしている(参照)。究極の身体の上への刻印に思いを馳せれば、行き着く先はそこにあるに違いない。
さらにララング(母の言葉)の刻印がある。
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サントームは母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。[Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère](ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
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ララング lalangueは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕[éclipses de silence]等で包む。ララングが、母の言葉[la dire maternelle ]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから[toujours liée au corps à corps des premiers soins]。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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ーーこれも原初的に考えれば、母胎内で聴いていたものであるというのが中井久夫である。 |
ここで上のバーハウ曰くの「母という誘惑者」、ソレール曰くの「最初期の世話に伴う身体的接触」を示すフロイト文を掲げておこう。
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母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
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このフロイトの死の枕元にあったとされる草稿には、次の文もある。
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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この母へのエロス的固着は、原症状としてのサントーム=享楽の固着のこよなく重要で簡潔な定義のひとつである。
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疑いもなく、(現実界の)症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
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享楽=リビドーであり、フロイトの定義では、リビドー は愛の力・愛の欲動・エロスエネルギー等である(後引用)。
そして愛は引力、原抑圧の引力である。
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
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この引力がラカンの穴でもある。 |
私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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したがって享楽の穴とは「愛の引力」、享楽の固着(穴埋め)は「愛の固着」と言い換えうる(この「愛」の意味は後にもういくら詳しく記述する)。
ところで、サントームはモノの名だとジャック=アラン・ミレール は言っている。
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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そして《モノは母である。das Ding, qui est la mère》(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)。
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ゆえに、《サントームは母の名である Le sinthome est le nom de la mère》とすることができる。
より厳密には「サントームは母なる異者身体の名」である。
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ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme - 28/1/98)
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モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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究極の異者身体とは、幼児が自己身体だとみなしていた身体の部分が分離された身体であり、この自己身体だとみなしていた身体の主要なものは、母の身体である(参照)。究極的にはこの身体を取り戻そうとする運動が、ラカンの《享楽回帰 Retour de la jouissance》であり、フロイトは《母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleib》とさえ言っている(参照)。この母胎回帰はラカンが究極の喪われた対象aは《胎盤 placenta》(S11)だといっているのにジカにつながる。
ミレール はこうも言っている。
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モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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いま上に掲げたミレール注釈文から「異者は享楽の名」だとすることができる。さらには「母なる異者身体は享楽の名」とも言える。
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そもそもーーラカンには種々の享楽ヴァージョンがあるがーー、サントームこそ真の享楽自体である。 |
サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
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以上に記してきたことはすべてフロイトにある。もっともラカンを通してフロイトを読まないとなかなか気づかないという意味で、ラカンの大きな功績であることは間違いない。そもそもラカンがいなかったら、現在フロイト自体が消えてしまっていた可能性が高いだろう。
ここで、冒頭図をここまでの記述で黒字強調した語彙を中心に置き直そう。 |
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上図に愛の引力あるいは愛の固着とした「愛」は、巷間で言われるところのイマジネールな愛(≒想像的ナルシシズム)はなく、リアルな愛の欲動あるいはエロスエネルギー=享楽であることに注意されたし。
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
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そして愛の欲動は死の欲動である(参考)。引力あるいは穴に吸い込まれたら死である。ここはフロイト研究者でさえいまだ解っていない連中がほとんどであるが。これは解釈の違いというレヴェルの話ではない。こう捉えていなければフロイトラカンを読んだことにならない、ーー《愛は死の欲動の側にある。[l'amour est du côté de la pulsion de mort]》(Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)。
フロイト自身の記述の曖昧さゆえフロイト派はまだしも、ラカン派でこれを認知していない連中はモグリである。もっともどこの業界でもモグリは99.9 %ぐらいはいる。 そしてこの「愛の欲動=死の欲動」を飼い馴らすのが最も究極的な意味での固着であり、だが十分に飼い馴らされず、死の欲動の残滓がある。それがエロスの残滓、享楽の残滓の究極の内実である。 |
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)
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死の徴
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私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入の記念である。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17、11 Février 1970)
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私が「徴 la marque」と呼ぶもの、「唯一の徴 trait unaire」…この唯一の徴 trait unaire の刻印 inscription とは、…死の徴(死に向かう徴付け marqué pour la mort) である。(Lacan, 10 Juin 1970)
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私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
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後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
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精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
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…………
■付記
そもそも死が愛の最終形態であるのは、精神分析など学ばずにも、かつてから言われてきたことである。ダ・ヴィンチもリルケも知っていた。ニーチェはもちろんのこと。だがこういったことに気づくようになったのは、わたくしの場合、フロイトやラカン派を通してである。
たとえば次の文のlustを愛と読み替えうることにごく最近気づいた。
死の彼岸にある永遠の愛 über Tod […]die ewige Lust (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
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ミレール 注釈文とフロイトをならべよう。 |
我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽[jouissance]と翻訳する。. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)
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享楽の名[le nom de jouissance]それはリビドー[libido]というフロイト用語と等価である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
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リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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ようするに Jouissance = lust =libido = Liebeである。もちろんフロイトの時期によって異なった意味で使われている場合もある。だがおおむねこう置けることに気づいた。重ねて強調しておくが、ここでの「愛 liebe 」とは愛の欲動 Liebestriebe という意味である。
少なくともツァラトゥストラで使われるニーチェのlustこの意味である場合が多い。
愛=享楽 Lustが欲しないものがあろうか。愛は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。愛はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が愛のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
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十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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ニーチェの熱心な、だが密かな読み手であったフロイトは、こういった捉え方を臨床的に裏付け、さらにラカンはそれをモデルを使って形式化したのである。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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最晩年のフロイトには《原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung》という表現もあるが、原ナルシシズムを取り戻す運動は、原ナルシシズム的欲動とすることができる。
愛 Lustが欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.…すべての愛は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)
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我々の往時の状態回帰(原カオス回帰)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)
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欲動ーー《欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である》(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)ーー、あなたがたが心だけに留まっていたらこういったことはまったくわからないだろう。だが真に身体に近づいた者たちはみなうすうすでもかつてから感知していた。
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