victimisation(被害者意識+被害者競争)
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この語は、自分ないしはある人間が特定の行為や現象 (攻撃的態度」テロ、自然災害、人種差別、社会的排除など)の被害者であると考えることであり(…)、それと同時に、一般的にこの言葉はそうした感じ方が不適切であると判断されるときにもちいられる。(…)
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さらに拡大された意味では、この単語は犠牲者に社会的なステイタスをあたえ過大に注目してほとんどそれを神聖視する傾向を指す(…)。ある社会であまりにも victimisation が進行すると、機牲者は卓越的な社会的ステイタスを獲得し、ほとんど神聖視される。 その結果、犠牲者というステイタスが魅力的なものと感じられるという倒錯的な現象がおこる。 そしてそうした特別なステイタスを獲得したいと考えて、実際にはうけてもいないのに暴行をうけたと虚偽の申し立てをするなどという危険な逸脱的行為がおこなわれることもある。
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(…)また自分の人生の挫折について責任を回避するために自分を外的原因(社会の拒絶など)の犠牲者とみなすということもある。 (…)極度に病的な場合には、victimisation はパラノイアのような病的症状と結びつく場合もある(…) 。
victimisation は政治の場において宣伝効果の高い武器として用いられることもある。 例えば不当に悪者扱いされて偏見の機牲者となっていると主張するなどである。(仏語Wiki "victimisation)
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ーー丸岡高弘氏の「フランスにおける反人種差別主義的ディスクールの危機」(PDF,2006)からだが、この論文は差別を考えるためにとても参考になるよ。5年ほど前の「私はシャルリ」の話題のときに断片を引用したことがあるが(あくまで「参考」になるのであって、ボクにはいくらか批判したい箇所があるが)。 主にフィンケルクロートの(比較的よく知られているだろう)次の発言をめぐっている。
日本の場合、仮に暴力とならずとも、SNS等において被害者競争系クラスタが、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》ツイートして騒ぎ立てているのは間違いないな。 |
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最後に、ある自戒を述べなければならない。被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。
社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
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あの連中は自らの加害者的側面にまったく気づいておらず、「アタシは正義の味方よ」ってわけさ。で、その祭りがおわったら事件をすぐ忘れて、次の話題を探すのさ。
人は忘れるのだ。深く考えなかったこと、他人の模倣や周囲の過熱によって頭にタイプされたことは、早く忘れる。周囲の過熱は変化し、それとともにわれわれの回想も更新される。外交官以上に、政治家たちは、ある時点で自分が立った見地をおぼえていない、そして、彼らの前言とりけしのあるものは、野心の過剰よりは記憶の欠如にもとづくのだ。社交界の人々といえば、ほとんどの事柄はおぼえていないにひとしいのである。(プルースト「囚われの女」)
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ーーたとえば「私はシャルリ」は何が問題だったのか、--そんなことはもはやとっくに忘れているだろ? いや、あの「連帯」の何が問題だったということさえ何も感じていないのかもしれない。 |
「病気」から逃れるために最も大切なことのひとつは、「同情深い」アタシはあることにはひどく憐れむが、他人は憐れんでいない。だがその他人が憐れんでいることに対して「同情深い」アタシは不感症なところがある。どうしてなのか?ーーこの問いを自ら発して、熟慮してみることだな。
見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら
きみに向かって倒れかかってきたら
きみはそいつを抱きとめられるかい
つまりシャツについたヘドを拭きとる前にさ
ぼくは抱きとめるだろうけど
抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を
ガクブチに入れて眺めちまうだろうな
他人より先に批評するために
……
――谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』より
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無思慮の同情
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「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえそうしたくないにせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮Gedankenlosigkeitがいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているの に、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。
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無私の同情の嘘
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真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思 っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。
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自己の名誉による同情
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他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、 それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。
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自己防衛としての同情
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われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な自己防衛やあるいは復讐[feine Nothwehr oder auch Rache]さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、 悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。
われわれが不幸な人物たちを避けることをしまいと決心するのは、われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するときである。
そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、誤謬を招く。なぜなら、どんな事情があっても、 それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。
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快としての同情
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しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれが その際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快の衝動[Antriebe der Lust]に服従することもやはり確実である。――快が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。
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ショーペンハウアーの誤謬
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この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、 「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあら ゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、 同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――
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同情をもたない人間の心理
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おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。 (彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。 それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。
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道徳的流行としての同情
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最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。 ――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である[sie verheimlichen die Thräne vor Anderen und wischen sie ab, unwillig über sich selber. Es ist eine andere Art von Egoisten, als die Mitleidigen]。――しかし彼らを紛れもない意味で悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。 ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番、1881年)
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もうひとつーー、
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快と不快
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人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。
快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。
この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。
人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。
──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志 Willens zur Macht の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番、1888年)
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精神分析の基本のひとつはここにしかないのだがな。キミのような「信者」には精神分析はまったく不向きなのはよく分かっているがね。
フロイトの観点では、享楽の不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。
欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる「不快 déplaisir」ある。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。定式は《不安は現実界の前触れl'angoisse est signal du réel》である。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
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ーーモノとはもちろん享楽の名であり、至高の対象aだ。原症状としてのサントームはモノの名である。
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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ラカンには種々の享楽ヴァージョンがあるが、サントームこそ享楽の核だ。
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サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
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ま、こういったことをいってもムダだろうがね、だがボクにはキミのようなタイプは正義の仮面を被った至高の悪人に見えるということだな、ムラ社会の通念に反してね。無知のパッションから逃れられない「不幸な」悪人と言ってもいいが。
ーーこの文は「精神分析を学んでいる」と言っている人だからこう記したのであり、ふつうの人にはいわないがね。オリタラドウダイ? そうしたらこんなこと言わないよ。
「至高善 Souverain Bien」を基礎づける道徳の法は、モノdas Ding であり、…根源的な問題le problème radical 、悪の問題 le problème du mal である。(ラカン, S7, 16 Décembre 1959~13 Janvier 1960、摘要)
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善は根源的・絶対的悪の仮面にすぎない。Good is only the mask of radical, absolute Evil…善の背後には根源的な悪があり、善とは「悪の別名」である。Behind Good, there is radical Evil: Good is "another name for an Evil" (ジジェク『斜めから見る』1991年)
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ーーこの文は「精神分析を学んでいる」と言っている人だからこう記したのであり、ふつうの人にはいわないがね。オリタラドウダイ? そうしたらこんなこと言わないよ。