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2020年6月3日水曜日

よく言うな、他者を想う想像力なんて


よく言うな、この期に及んで、他者を想う想像力なんて。直接には、あのコロナ専門家だけどさ。ほかにもいろんなムラビトが言ってるや。

われわれは過去を振り返り、なぜヒトラーを止められなかったのか、と悩む。だが目の前の大虐殺には、また見て見ぬふりをしてしまった。旧ユーゴスラビア、ルワンダの反省から、武装紛争下の「文民保護」を国連で決議していたのに、あまりに多くの人々が、痛めつけられ苛まれ殺された。ルラ・ジュブリアル「世界が放置したアサドの無差別殺戮、拷問、レイプ」(2016年12月19日)

この10年間、おおっぴらに人は他者を想う想像力なんてないのを学んだはずだがな。

「餓死するか、空爆で殺されるか、命がけで脱出するか。私たちにはこの三つの選択肢しかない。アラー(神)は私たちを見捨てた。私たちはアサド(大統領)に敗北した」(アレッポ東部の女性小学校長ヒンドゥ・アブダン、朝日新聞の電話インタビュー、2016年)
@Ahmad1618A 私は人々が第三次世界大戦を危惧するのは尤もだと思う。私はシリア人だ。戦争より恐ろしいものはないと思う。悲しいことに、私たちシリア人の子供たちが殺されることはあなたたちには何も意味しない。この九年来、子供たちが世界の誰に気にもされず、ただ死んで行くのを見ているしかないのは平和とはほど遠かった。(2020年1月5日)


結局、人は古典的なルソーの憐みの格率、とくに第二の格率の条件がなければ、他者を想う想像力は働かない。

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。
【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。
【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。(ルソー『エミール』1762年)

ラカン 派用語で言えば、鏡像的他者のあいだでしか想像力は働かない。ほとんどの場合、と一応保留しておくが。

基本的には、自分がその禍から免れていると思えば、人は同一化しない。

私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同一化する (se identifier) ことによってである。( ルソー『言語起源論』1781年)


憐れみ、つまり同情である。

(自我が同一化する際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れIntrojektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


ボクの住む国はかつての難民大国だったからな、テニス仲間には、難民経験してドイツやら米国やらカナダから帰ってきたヤツが5人もいてさ。おまえ、なんでシリア難民のことすぐ忘れるんだ、って責められるんだけど、同一化する徴がないんだよ、って説明してもわかってくれなくて、表立って言われなくても、理屈を捏ねるばかりの冷たい野郎っていう待遇だな、とくに一緒に飲むとそれをひしひし感じてしまうね。

(心的外傷の別の面⋯⋯)殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある。(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)