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2020年6月3日水曜日

穴埋めの残滓

まず現代主流臨床ラカン派(フロイト大義派[Ecole de la Cause freudienne]ーつまりミレール派)がどういう方向に向かっているかを示そう。


後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)

………………

さて本題である。




以下、上の図を引用にて注釈する。

◼️まず表の右側である。


享楽の残滓 (а)  =リビドー固着の残滓
享楽は、残滓 (а)  による。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。(J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


「享楽の残滓」は「身体の残滓」と言い換えてもよいだろう。

まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


「身体の出来事」とは原症状としてのサントームΣのことである。

ラカンのサントームΣは、1と身体がある[Il y a le Un et le corps. ]である。(Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013)
常に1と他、1と対象aがある。[il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)](Lacan, S20, 16 Janvier 1973)





ここでの「1」とは、シニフィアン(表象)という意味だが、通常の言語表象だけではなく、事物表象(イマーゴ)、モノ表象(リアルとの境界表象)も含まれる。







ちなみにフロイトの原抑圧と欲動は境界表象のポジションにある。



(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)






◼️次に表の左側である。

サントームは享楽の固着である
Le sinthome est une fixation de jouissance.
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)

ーーここでジャック=アラン・ミレールが「症状」と言っているのは、現実界の症状=サントームのことである。 

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,   30. Nov. 1974.)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ーー上でラカンが「刻印」というとき、これは固着(リビドーの固着)のことである。

リビドー固着とその置き残し
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)

ーーさらにラカンが「症状は身体の出来事」というとき、トラウマ的出来事のことである。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation ( (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2 février 2011)

ーー「身体の出来事」とは、フロイトの表現では「自己身体の上への出来事」であり、次の文には「トラウマへの固着」以外にも「不変の個性刻印」という語も出てくる。

トラウマへの固着・不変の個性刻印
幼児期の病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)

…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)

ミレール にて確認しよう。

フロイトが固着と呼んだものは、…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


ほかにもサントームの定義として次のようにある。

固着による身体の自動享楽
サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

ーーこの「固着による身体の自動享楽」とは、フロイトの次の文の言い換えである。

固着による自動反復・無意識のエスの反復強迫
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

この文にある欲動蠢動を示す別の表現は「異物としての症状」であり、これが冒頭に掲げた「享楽の残滓」の症状であり、図の右下隅に丸括弧で示している。




異物としての症状
われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 [das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 [ichfremde Stück der Innenwelt]である。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



ラカン はこの欲動蠢動を次のように表現している。

欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung(Triebregung) est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)


フロイトなら欲動蠢動は、いま掲げた「異物としての症状」、先にに掲げた『終わりなき分析』における「リビドー 固着の残滓=原始時代のドラゴン」であると同じく、「不気味なもの」でもある。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)




原抑圧としての固着が、異物に関わるのは、次の文が示している。

固着による異者
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者 fremd のようなに思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


そしてラカン のサントームが原抑圧にかかわるのは、次の文が示している。

サントームと原抑圧としての穴
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


ラカン自身によるフロイトの異物(異者としての身体Fremdkörper)を示す表現はたとえば次のものである。

われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


ここでフロイトの「リビドー 」がラカン の「享楽」と同じ意味であることを確認しておこう。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


たとえば初期フロイトの表現、《遡及的に引き起こされるリビドー[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ]》( Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97)は、ここでの文脈で言い換えれば、「固着によって遡及的に引き起こされるリビドー の残滓=享楽の残滓」とすることができる。


◼️最後に図の真ん中の「穴と穴埋め」である。

穴としての享楽a/穴埋めとしての剰余享楽a
あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽  [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。

対象aが示しているのは、「中心にないものとしての不在[l'absence de ce qu'il n'y a pas en ce centre])と「その不在を埋め合わせる穴埋め [le bouchon qui comble cette absence]」の両方である。したがって、対象aは二つの顔を持つ。ポジの顔は穴埋め le bouchonである。もう一つの顔は、不在 un absence、控除 un moinsと等価である。これは対象aが去勢 castrationを含んでいることを示す記述に見出される。われわれは対象aを去勢(- φ) を含んだものとして置く。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


確認の意味で最近のコレット・ソレールを引用しておこう。

対象aは、喪失・享楽控除の効果とその喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片化効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


さらにーー、

疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
穴を開けられた現実界(享楽)には、しかしながら、享楽の固着という穴埋めもある。Dans ce réel troué, cependant il y a aussi le bouchon d'une fixion de jouissance (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)

ーー去勢と穴(享楽の穴)は同じ意味である。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)



以上で冒頭図の意味合いが瞭然とした筈である。日本語にして掲げておこう。



試しに「穴としての享楽a/穴埋めとしての剰余享楽a」も含めて、(a)を置いてみたが、こうして見るとどこもかしこも(a)なのである。もっとも残滓(a)は、享楽の穴(a)の仲間であり、上辺の穴埋め=剰余享楽aの仲間ではない。

さらに言えば、享楽の穴aと享楽の残滓aは仲間でありつつも厳密には少し違う。享楽の穴の究極の内実は出生による喪失にかかわる。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤 le placentaという個体が出生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を徴示 する。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

ーーラカン は「ラメラ神話」で受生によるリビドー控除、すなわち享楽控除を語ったが、これが究極の穴aである。

さてここまで記してきたリビドー固着(享楽固着)は幼児期の固着だが、後年の人生での外傷的出来事による外傷神経症もメカニズムとしては同様であり、固着によって、フロイト曰くの《無意識のエスの反復強迫》、ミレール 曰くの《身体の自動享楽》という反復強迫症状をもたらす。


外傷神経症における固着
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


事実、日本におけるトラウマ研究の第一人者だろう中井久夫は「異物」用語を使って、幼児期記憶と外傷記憶を機制としては等置している。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)




ここでもいくらか用語を確認しよう。

外傷神経症とモノ(異者)
(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
ある時期以降のラカンの反復はフロイトの反復強迫であり、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


ーーこのように異物(異者としての身体Fremdkörper)=享楽の残滓a(身体の残滓a)は、フロイトラカン の精神分析理論において核心概念のひとつである。

この異物はもともとブロイアー起源の言葉で、フロイトは『ヒステリー 研究』(1895年)の後、ブロイアー と分かれたせいもあるのか、それほど多くはこの語を使っていない。

だが「リビドー固着の残滓」[Reste der Libidofixierung]以外にも、『夢解釈』にあらわれる「夢の臍」[Nabel des Traum]・ [菌糸体」 [mycelium]・「我々の存在の核」[Kern unseres Wesen]、「症例ドラ」等にあらわれる「身体からの反応」[ Somatisches Entgegenkommen]、『終わりなき分析』にあらわれる 「欲動の根」[Triebwurzel]、あるいは「不気味なもの」[Unheimlich]等、これらはすべて「異物(異者としての身体)」[Fremdkörper]にかかわる。

二文だけ摘要訳して示しておこう。

暗闇に置き残された夢の臍 im Dunkel lassen[…]Nabel des Traums」(フロイト『夢解釈』第7章、1900年)
暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […]fremd(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)



そしてこの暗闇に蔓延る異者ーー当時のフロイトにはエス概念はない、だが明らかにこの暗闇はエスであるーーー、つまりエスに蔓延る異者としての身体が、ラカンの穴としての対象a、あるいは冒頭近くに示し享楽の残滓としての対象aである。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou  (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
欲動の現実界 [le réel pulsionnel ]がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(…)原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、夢の臍 [Nabel des Traums] を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

もちろん穴としての現実界(エス)は、穴の原象徴化の試みとしての固着より先にある。

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

この置き残されたエスの核が、我々の存在の核であり、原無意識である。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

要するに最初にエスの身体ありき。だが固着によって初めて、潜在的な異者としての身体は現勢化され、我々存在の核となる。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

人におけるすべての症状は、この「我々の存在の核」としての異者身体の症状(原症状=サントーム)に対する防衛にすぎない。

フロイトはこの原症状の防衛としての二次的症状を心的外被[psychische Umkleidung]、ラカンは形式的封筒[l'enveloppe formelle ]と呼んだ。

この「外被」あるいは「封筒」は大きな意味でのエディプス的症状である。

いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


したがって人の症状の真の問いは、上階にある言語による二次的症状ではなく、地階にある異者としての身体の症状である。





私の内部の夜の身体を拡張すること
私自身の内部の無から
あの夜
あの虚無から

dilater le corps de ma nuit interne,
du néant interne de mon moi
qui est nuit
néant,

ーーアントナン・アルトーAntonin Artaud , Supprimer l'idée



いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

…………

最後に外傷神経症の話に戻っておけば、幼児型記憶としての異物としての症状は、人がみなもっている構造的トラウマ症状でありながら、そのメカニズムの際立った事例は、事故的外傷神経症に現れる。

人はみなトラウマ化されている[ tout le monde est traumatisé ]…この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


原症状の反復機制を把握したければ、上に引用したフロイト1916が示す事故的外傷性神経症者が《規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen》様に思いを馳せるのが早道である。