名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)
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エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)
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ーーラカンはこう言ってフロイトを批判したのだが、この言明は何よりまず次の文脈のなかにある。 |
実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。
これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère. ]…
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父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970)
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要するにフロイトのエディプスコンプレクスはヒステリー的幻想だと言ったわけだ。そして《幻想とは、象徴化に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである》(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)。つまり原初の現実界的母に対する防衛が「理想化された父」にかかわるエディプスコンプレクスである。
放棄した対象備給の影響に対して、のちになって性格に抵抗がどのように形成されることがあっても、最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。
というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である[Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit.](注)
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注)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
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だが注には「両親との同一化」とある。現在のラカン派では、この両親との同一化は実際は、母との同一化とされる。これは同一化の「取り入れIntrojektion」作用によるによる「母なる超自我surmoi maternel」の意味をもつ。
幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
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(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
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さらに一般化されて、超自我自体が母なる超自我と捉えられ、父の名としての自我理想の背後には母の名としての超自我があるとなる。
自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、私に教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)
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日本のフロイト学者はフロイトの叙述の曖昧さゆえにやむえないにしろ、ラカン学者にもこの区別がついていない人がいまだ多い。ま、三文注釈書のたぐいは、害しかないよ。
フロイトは父に血迷ったところは確かにある。だが実際は、起源にあるのは父への愛ではなく、母への愛だと折に触れて示している。
すべての愛の関係の原型
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小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。
Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)
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子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
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最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、後ののすべての愛の関係性の原型Vorbild aller späteren Liebesbeziehungenとしての母であり、男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)
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フロイトのこういった観点を読み込んでだろう、メラニー・クラインは母の乳房が超自我の核だとした。
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私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)
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ラカンは初期からこのクラインの観点を受け入れている。
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母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
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とはいえ現代ラカン派では、母の乳房自体というよりも母の身体ーー根源には母胎があるーーが超自我の核とされる。
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ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme - 28/1/98)
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子供はもともと母、母の身体に生きていた l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 。…子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である。il est, par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses de son chorion dans […] l'utérus(Lacan, S10, 23 Janvier 1963ーー異者文献)
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超自我は死の欲動である(参照)。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
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究極の以前の状態は母胎内の原享楽状態でありながら、母胎を取り戻すことは、母なる大地に抱かれることであり死である。この死の欲動に対する防衛としての神経症的症状がエディプスコンプレクスであり、想像的構築物としての父を信じることである。あくまでひとつの症状にすぎず、防衛の仕方は他にもある。精神病的な妄想あるいはフェティッシュ的な倒錯が代表的なものである。晩年のラカンは神経症的幻想を「父の版の倒錯」と呼ぶことにより、神経症を倒錯の仲間入りさせた。
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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