前回掲げたこの図の「穴埋め」は昇華のことである。
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。(J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013)
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穴埋めとしての剰余享楽とはもう享楽はないという意味もある。
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仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽 を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)
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「剰余享楽plus-de-jouir」には、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味がある。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)
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対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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フロイトラカンにとって学問も芸術も昇華であり、つまり剰余享楽である。
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われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen 、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。
一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
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ーー前期ラカンはこう言っている、《ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science]》(ラカン、S7, 03 Février 1960)
このヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは後期ラカンにおいてはすべて妄想となる。
話を戻せば、『文化の中の居心地の悪さには、《欲動の昇華 Sublimierung der Triebe 》あるいは《リビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen》とあったが、リビドー =享楽であり、したがって「本来の享楽の昇華」、あるいは「享楽の目標をずらせること」である。 | |||||||||||
本来の享楽の目標は喪われた対象を取り戻すことである。
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。…この享楽の対象 Objet de jouissanceは…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)
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しかし取り戻せば、事実上、死が訪れる(母なる大地との融合)。したがって究極的には死に対する防衛が剰余享楽となる。我々の人生は剰余享楽の人生である。「享楽の穴=愛の引力」を徹底的に抑圧している者もいるだろう。だがほとんどの人はその穴=引力に魅惑されつつも戦慄し、そのブラックホールの周りを遠回りに循環運動をしている筈である。これがフロイトラカン的な人の生である。パッセージアクトとしての自殺衝動を抱いて実現する人以外は、防衛の仕方を各人異なるにせよ、構造的にはみな同一である。もちろん、たとえば学者はおおむねひどく遠回りだろうが、「真の」芸術家はブラックホールの境界でウロウロしているということは言えるかもしれない。
こういった考え方は、レオナルド・ダ・ヴインチが既に示している。
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我々の往時の状態回帰(原カオス回帰)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)
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フロイトラカンの思考の原点はこのヴァリエーションに過ぎない。
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
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ダ・ヴィンチの文に《原カオスへのリトルネロ ritornare nel primo chaos》は《蛾が光に駆り立てられるのと同様 similitudine della farfalla a lume》とあったことを思い起こして次の文章群を読もう。
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リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
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かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。
されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)
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「プラトオのエロス」ーー人の生はエロスの周圍にむらがる蛾である。
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「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。
それはフロイトが、« trieber », Trieb(欲動)という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
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大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort. に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
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愛は不可能である。l'amour soit impossible (ラカン、S20, 13 Mars 1973)
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死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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