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2020年8月11日火曜日

浮世の果は皆小町なり


色は君子の惡むところにして、佛も五戒のはじめに置くといへども、流石に捨てがたき情のあやにくに哀なるかた〴〵も多かるべし。人しれぬくらぶの山の梅の下ぶしに思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の關ももる人なくばいかなる過ちをか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。(芭蕉『閉關の説』)

ははあ、芭蕉ってのはいいこと言ってるんだな、今ごろ知ったよ。西鶴や近松の同時代人、菱川師宣のとっても上品な春画「恋の極み」が生まれた時代の人なんだから当然とは言え。

芭蕉の伝記は細部に亘れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下に尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚さへ恐れさせた西行ほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産」にある蕩児の一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。…… 
最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合に図々しくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶す言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。(芥川龍之介「続芭蕉雑記」)

俳句にはめったにないけど、連歌にはそれなりにあるんだ。
あの月も恋ゆゑにこそ悲しけれ         翠桃
露とも消ね胸のいたきに             芭蕉

ーー「秣おふ」歌仙 元禄2年

さまざまに品かはりたる恋をして      凡兆
浮世の果は皆小町なり         芭蕉

ーー「市中は」歌仙 元禄3年



奥の細道の冒頭を誤読していたのかもな

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸するより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、

  草の戸も住替る代ぞひなの家
 面八句を庵の柱に懸置。

(松尾芭蕉『奥の細道』)


道祖神つまりさへの神ってのは、縁結びの神、生殖の神でもあるからな


くれ竹のせまきふしどにねざめをかこちしも。さへの神にや誘れけん。かみかせの伊勢の宮居おかまんと。さみだるゝ頃杖よ笠よと立さはきつゝ。するが路や不二のなかめにうなじたるゝ。とおつあふみに旅やどりして。まだ夏ながら秋葉の山によぢのぼれば。ふる郷人にことつげん。なつかし鳥の啼にさへしのばれ。三河もよし田おか崎や。(曲亭馬琴『壬戌羇旅漫録』)

夏の月御油より出でて赤坂や 芭蕉

御油から赤坂までは1.7kmしかなく東海道五十三次宿駅の最短距離。赤坂は幕府の直轄地だが、吉田・御油と並んで遊女の多い歓楽街として栄えた宿場。当時の俗謡に 「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」 「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」 等々がある。



御油と赤坂で客の争奪戦もあったようだ。御油 旅人留女(ごゆ たびびととめおんな)などと呼ばれている。




此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪あけ油てふ宿につく夜は(狂歌)

よし田のめし盛。夏は越後ちゞみにおなじ縞の前垂をかけ手に團扇をもちて夜行す。よし田岡崎とも。妓はことごとく伊勢より來たるものなり。ゆゑに妓ばかり伊勢訛りなり。妓席上にて三絃を鳴すに。かむろだちなどうたふことあり絶倒するに堪たり。今切のわたしを經て西は。人物その外江戸にあらず。京にあらず。中國の風姿こゝに於て見るべし。土地の婦人はかならずしも美ならず。商家の衒妻などを見れば。黒暗天女の如し。(曲亭馬琴『壬戌羇旅漫録』)





馬琴のいっている吉田や御油の飯盛女が伊勢の女ばかりだというのは、当時、吉田大橋のたもとから伊勢詣の舟が出ていたからだろう。



わたくしの実家はこの吉田城跡からごく近く、わずか3百メートルほど東にあったので、よくこのあたりをときに自転車でときに徒歩でウロウロしたのだが、今ここで記していることは殆ど知らなかった。



ーー小学校の遠足はこの城跡公園だったり向こうにみえる山だったりした。野球場やテニスコートもここにある。


よしだの宿に日を暮たり。橋のもとまで行たれば、ふねにふねにとよぶ。いづかたへ乗ることぞときけば、参宮の道者、爰よりのれば、白子、川崎といふ所へ着く、くがには三日はやしといふ。(嵐雪「杜撰集」)





三河湾はひどく遠浅の海でたぶん船の運行には熟練を要したはずである。

当時は今よりは深かったかもしれないが、三河湾の平均水深は現在9mしかない(東京湾は45m、伊勢湾は17mに対して)。