色は君子の惡むところにして、佛も五戒のはじめに置くといへども、流石に捨てがたき情のあやにくに哀なるかた〴〵も多かるべし。人しれぬくらぶの山の梅の下ぶしに思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の關ももる人なくばいかなる過ちをか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。(芭蕉『閉關の説』)
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ははあ、芭蕉ってのはいいこと言ってるんだな、今ごろ知ったよ。西鶴や近松の同時代人、菱川師宣のとっても上品な春画「恋の極み」が生まれた時代の人なんだから当然とは言え。
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芭蕉の伝記は細部に亘れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下に尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚さへ恐れさせた西行ほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産」にある蕩児の一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。……
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最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合に図々しくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶す言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。(芥川龍之介「続芭蕉雑記」)
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俳句にはめったにないけど、連歌にはそれなりにあるんだ。
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あの月も恋ゆゑにこそ悲しけれ 翠桃
露とも消ね胸のいたきに 芭蕉
ーー「秣おふ」歌仙 元禄2年
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さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆
浮世の果は皆小町なり 芭蕉
ーー「市中は」歌仙 元禄3年
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