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2020年8月10日月曜日

腰の奥の力


美の標準は各個の感情に存す。各個の感情は各個別なり。故に美の標準もまた各個別なり。また同一の人にして時に従つて感情相異なるあり。故に同一の人また時に従つて美の標準を異にす。(正岡子規『俳諧大要』1895年)

この28歳の子規ーーこれは何よりもまず批評なんてのは当てにならないってことだな。20代でこういうことを言える人ってのは今でも珍しいのじゃないか。

経験的条件のもとでは、形態の美に関して黒人と白人とはそれぞれ異なる標準的理念をもつに違いないし、またシナ人はヨーロッパ人と異なる標準的理念をもつに違いない。そして美しい馬や美しい犬(それぞれ異なる種属の)の模範についても、事情はまったくこれと同様であろう。美のかかる標準的理念は、経験から得られて一定の規則と見なされるような比例に基づくものではない、むしろこの理念に従って初めて判定の規則が可能になるのである。(カント『判断力批判』1790年)

標準的理念なんてものは、国や時代により異なる。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

《また同一の人にして時に従つて感情相異なるあり。故に同一の人また時に従つて美の標準を異にす》ーー朝と夕暮れでは何を美しいと感じるかは異なる。疲れている時と元気な時だって異なる。女に惚れている時とうんざりしている時だって異なる。

あなたは自分が何を望んでいるか実際に知っているのか? 

――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安があなたを苦しめたことはないのか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 

自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいはあなたがはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと切望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する渇望 schämenswerthen Gelüste! 
あなたはまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、あなたが、ほかならぬあなたがそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、全き秘密の前提条件がいつもあるのだ! 

あるいはあなたは、あなたが冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! 
あたかもあなたは、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーーあなたの愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 

あなたの肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。あなたの病熱は、それらを怪物にする! あなたの朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 

あなたはあらゆる認識の洞窟の中で、あなた自身の亡霊 Gespenstをーーあなたの視野からその中に覆い隠蔽された繭 Gespinnstとしての亡霊をーー再発見することを恐れていないのか。あなたがそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇 schauerliche Komödieではないのか? ――(ニーチェ『曙光』539番、1881年)



ところで、美の起源はほんとに性欲なんだろうかね、ツイッターなんかで「ああなんて美しいのでしょう!」と日々連発しているお嬢さんやお姉さんがいるが、あれは腰の奥の力でそう言ってんだろうか?


芸術家の心理学によせて。――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、陶酔Rauschがそれである。陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前は芸術とはならないからである。実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮Geschlechtserregungという最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
「美」という概念が性的興奮 Sexualerregung という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの sexuell Reizende(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。
われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
「美」や「魅力」は、もともと、性的対象が持つ性質である。Die »Schönheit« und der »Reiz« sind ursprünglich Eigenschaften des Sexualobjekts.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。名文家と好色家との間にある心理的もしくは生理的な必然の関係は将来必ず研究発表されるであらう。ダンヌンチオの詩文、レニヱーのもの、わが荷風文学も亦その時の有力な証左として引用さるべきものであらう。色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。グルモンの所説の如く美学の中心は心臓よりももつと下部にある。この認識が荷風文学を理解の有力な鍵である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年)