何度か引用しているが、漱石の『三四郎』には、偽善と露悪の話がある。
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近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(…)
昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』1908年)
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漱石の時代でもこうであった。つまり《君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位》、要は権威が失墜して、個人の露悪が露出した。とくに一神教的でない日本はかつてからこうなりがちである。
この漱石を受けて、柄谷と浅田は次のように言っている。
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柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。
むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。
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浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。(……)
日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)
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だが漱石の偽善と露悪の話はこれだけではなく、いっそう微妙なことが言われている。「最も優美な露悪家」の話である。
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「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
「どんなのです」
「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』1908年)
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この露悪家は、《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》意識的な振舞いだが、現在、ツイッターなどのSNSでの「正義派」はどうだろう?
少なくともツイッターでのかなりの割合の正義派言説は、それが意識的であれ無意識的であれ、「優美な露悪家」たちによる攻撃性発露の姿にみえる。
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誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)
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あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務を個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の中立性という観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその背後にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)
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わたくしは《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》意識的な「優雅な露悪家」のところがある。だが、《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》無意識的な露悪家に対しては、ごく標準的に「素朴な露悪家」としてのボクが現れる。どうも無意識的な「偽善=露悪」連中こそもっともタチが悪いという先入観がある。
あるいは《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせ》て、他人への攻撃性を無意識的に享楽しているのが明らかであるようにみえる連中をみると、どうにも我慢ができなくなり、ナイーブな露悪家として振る舞ってしまう。
これは悪癖だとはいえ、なんとかならないもんか、あれら「ほどよく聡明な=凡庸な」ツイッターリベラルインテリの正義面は、と常々考えてしまうのである。
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )
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「ほどよく聡明な=凡庸な」リベラルインテリとは、たとえば次の意味合いも含意している。
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