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2020年9月17日木曜日

少年の盲目の鳥の羽搏き


人が観察するそんな生活の外見は、内面に翻訳されなくてはならず、しばしばうらかえしに読まれなくてはならず、苦労をかさねて判読されなくてはならない。われわれの自尊心、情熱、模倣の精神、抽象的な理知、習慣が、これまでにやってきた仕事を、芸術は解体すべきであろう。芸術がわれわれのあゆみをみちびくのは、反対の方向にであり、深いところに向かってであろう、すなわち、現実に存在したものがわれわれに知られないままに横たわっているあの深いところにもどることであろう。いうまでもなく、真の生活を再創造すること、過去の印象を若がえらせることは、大きな誘惑であった。しかしそのためにはあらゆる種類の勇気、感傷を克服する勇気さえ、必要なのであった。なぜなら、それは、第一にわれわれのもっとも親しい幻影をすてることであり、またわれわれが自分で苦労してつくりあげてきたものの客観性を信じるのをやめることであり、ついで、「彼女はほんとにやさしかった」などといって性懲りもなく自分をごまかさないで、逆に、「彼女に接吻することに快感をもった」にずばり改めるべきだからである。なるほどそのような恋の時間に私が感じとったものは、すべての男たちもまたそれを感じとるものなのだ。(プルースト「見出された時」)


14歳の少年はジルベルトのスカートごしの下腹に異物をこすりつけることに快感をもった。

すべての人間はおちんちんをもっている。それでおちんちんは僕が大きくなったら僕と一緒に成長する、だってそれは生えているんだから。[alle Menschen haben Wiwimacher, und der Wiwimacher wächst mit mir, wenn ich größer werde; er ist ja angewachsen](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年)
享楽はおちんちんから来る。それはハンス少年にとって異物だった。La jouissance qui est résultée de ce Wiwimacher lui (petit Hans )est étrangère (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME, 1975)


14歳の少年はジルベルトの耳が赤らむのを見て、異物の奥から蜜が溢れでていることを夢想した。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者(異物)とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの 』1919年)


14歳の少年の異物は痙攣することに享楽をもった。

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


14歳の少年のズボンの大きなプンクトゥムに、シルベトリは《からだをぐっと縮めるような恰好をした》(「花咲く乙女たちのかげに」)

『明るい部屋』のプンクトゥムpunctumは、ストゥディウムstudiumに染みを作るfait tache dans le studiumものである。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才 le génie propre de Roland Barthes が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果l'Effet de réelと呼ばれるものである。(Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011


あの盲目の鳥の羽搏きの回想は、半世紀近くたった今でも、青春のあらゆる憂愁を喚起した。

マドレーヌの感覚と同種のある感覚は、『墓のかなたの回想録』もっとも美しい部分につながるのではないだろうか、「きのうの夕方、私は一人で散歩していた… とある白樺のもっとも高い枝にとまった一羽のつぐみのさえずりに私は内省からひきだされた。たちまちその魔法の音は私の目に父の領地を出現させた、私は自分が証人になってきたばかりの数々の大異変を忘れた、そしてただちに過去のなかにはこびさられた私は、あのようにしばしばつぐみが鳴くのをきいたあの田舎をふたたび目にした。」N'est-ce pas à mes sensations du genre de celle de la madeleine qu'est suspendue la plus belle partie des Mémoires d'Outre-Tombe : « Hier au soir je me promenais seul... je fus tiré de mes réflexions par le gazouillement d'une grive perchée sur la plus haute branche d'un bouleau. À l'instant, ce son magique fit reparaître à mes yeux le domaine paternel ; j'oubliai les catastrophes dont je venais d'être le témoin et, transporté subitement dans le passé, je revis ces campagnes où j'entendis si souvent siffler la grive. » 
またこの『回想録』の二つか三つのもっとも美しい章句の一つは、つぎのものではなかろうか、「ヘリオトロープの上品な、心地よい匂が、花ざかりのまめ畑の小さな一画から立ちのぼってきた。その匂は祖国の微風によってではなくて、ニューファンドランドの野生の風にはこばれてきたもので、祖国から追いやられてきた植物とは関係もなく無意識的記憶や官能との共感もなかった。美女の呼吸をはずませることもなく、その乳房にふれて清められることもなく、そのあゆみのあとにひろがることもないこのかおり、しかし黎明を一変し、文化を一変し、世界を一変するこのかおりのなかには、悔恨と、不在と、青春との、あらゆる憂愁があった。」Et une des deux ou trois plus belles phrases de ces Mémoires n'est-elle pas celle-ci : « Une odeur fine et suave d'héliotrope s'exhalait d'un petit carré de fèves en fleurs ; elle ne nous était point apportée par une brise de la patrie, mais par un vent sauvage de Terre-Neuve, sans relation avec la plante exilée, sans sympathie de réminiscence et de volupté. Dans ce parfum, non respiré de la beauté, non épuré dans son sein, non répandu sur ses traces, dans ce parfum chargé d'aurore, de culture et de monde, il y avait toutes les mélancolies des regrets, de l'absence et de la jeunesse. » 
フランス文学の傑作の一つ、ジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィ』は、『墓のかなたの回想録』のコンプールに関する章とまったくおなじように、マドレーヌの味や「つぐみのさえずり」と同種の感覚をもっている。Un des chefs-d'œuvre de la littérature française, Sylvie, de Gérard de Nerval, a, tout comme le livre des Mémoires d'Outre-Tombe relatif à Combourg, une sensation du même genre que le goût de la madeleine et « le gazouillement de la grive ». 
最後にボードレールにあっては、そんな無意識的記憶(レミニサンスréminiscences)はもっと多数にのぼり、あきらかにこれは偶然ではなく、したがって、私の意見では、決定的なものである。ほかならぬこの詩人こそ、さらに多くの選択と安逸とをもって、意志的に追求する ことになるのだ、ーー女の、たとえば髪の毛、乳房の匂のなかに、「ひろびろとしたまるい空のコバルト・ブルー」や「旗とマストとに満ちた港」を彼に喚起するであろう霊感の類推を。Chez Baudelaire enfin, ces réminiscences, plus nombreuses encore, sont évidemment moins fortuites et par conséquent, à mon avis, décisives. C'est le poète lui-même qui, avec plus de choix et de paresse, recherche volontairement, dans l'odeur d'une femme par exemple, de sa chevelure et de son sein, les analogies inspiratrices qui lui évoqueront « l'azur du ciel immense et rond » et « un port rempli de voiles et de mâts ».
私は、根底にそのように転置された感覚が見出されるボードレールの詩篇を一心に思いだしながら、やっと自分をそれとおなじように高貴な系譜のなかに置くまでになり、そのことで、いまはためらわずに着手しようとくわだてている作品が、それにささげようとしている自分の努力に値している、という確信に達してきた。J'allais chercher à me rappeler les pièces de Baudelaire à la base desquelles se trouve ainsi une sensation transposée, pour achever de me replacer dans une filiation aussi noble et me donner par là l'assurance que l'œuvre que je n'avais plus aucune hésitation à entreprendre méritait l'effort (プルースト「見出された時」p406-p408、井上究一郎訳、一部変更)


彼女の股は空虚である
ぼくはそこに乞食が物を乞うのをさえ見た
ぼくの精液は白い鳩のように羽搏く
氷のように曇った彼女の頬が見える
花のように曇った彼女の陰部が見える
そして鳥たちは永遠に
風のなかに住むだろう
狂った岩石のように。

盲目の鳥たちは光の網を潜る。

ーー瀧口修造「地上の星」