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2020年10月8日木曜日

あなたに音楽を愛しているとは言わせない

前回、話題にしたミシェル・シュネデールからまず始める。

遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(ミシェル・シュネデール「グールド、ピアノソロ』1988年)


上の文というより、前回の内容を記述していると、古井由吉の音楽をめぐる文が思い起こされたので、以下に列挙する。


静かさというのは物音と物音との、落着いた遠近のことらしい。近い物は近く聞え、遠い物は遠く聞え、その中を近づいてくる音、遠ざかって行く音が自然に耳でたどれる、おのずと耳でたどっている、そんな空間のことらしい。あるいは揺ぎなく、遅速なく、目で測れるように流れる時間、のことかもしれない。近づいてくるのが、生命を脅かすようなものでも、そんな時、人は静かと感じるようだ。

遠近の失われた静かさというものはある。何もかも等しなみに鮮明に、あるいは朧気に映る。あるいは時間があまりにも早く、あまりにも遅く流れる。外の力にもはや反応できなくなる。あるいは自分自身の行為からふっと離れてしまう。そんな時、人はやはり静かと感じるようだ。長閑とも感じる。しかしその長閑さは、どうやら根に叫喚をふくんでいる。声にならぬ叫喚、そのものかもしれない。考えてみれば、遠近を狂わせるものは、恐怖なのだ。
無音と呼ぶべきものもあるようだ。音がないわけではない。音への関係が失われているのだ。そんな時、人はとかく、物音の侵入に悩まされているように思いこむ。数ある中で、特定の物音に、はてしもなくこだわる。じつは、その音の立つのをひっそりと待っていて、偏執的に抱きしめるのだ。

人はそれぞれ固有の静かさを、死病のようなものとして、身体の内に抱えこみ、小心に押えこんでいるのかもしれない。無音の中では、その静かさがふくらみそうになるので、縁もない物音にひたすらこだわって、むりやり関係をつないで、紛らわそうとする。(古井由吉「池沼」『哀原』1977年)

音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉「赤牛」『哀原』1977年)

騒音に押し入られるままになっている人間にとって、ときたまはさまる静まりこそ、おそろしい。静まりとは言いながら内に狂躁の、おもむろな切迫のようなものをはらむ。内にふくらみかかる狂躁を出し抜くためにも、外へ向かって自分から躁がなくてはならない。取りあえず喋りまくる。人がいなければ何でもよいから音を立てる。誰もいない部屋にもどるとまずテレビをつける。まさに、沈黙を忌む、である。耳を澄ますのも、沈黙を招くおそれがあるので、よほど用心しなくてはならない。人との話によけいな間を置くのも、お互いに沈黙の中へ惹きこまれそうになるので、あぶない。
これでは耳の上げ底どころか、心の上げ底になる。道理で物を深くは感じ止められないばかりに、深く思うこともできなかったはずだ。そのことは自嘲して済ますとしても、そうなるとしかし、今の世の男女の交わりは、お互いに沈黙をふせぐための、躁がしさの交換になるはしないか。死者たちのもとまで通じるような沈黙の中へぽつりぽつりと滴る、睦言や兼言や怨言は、絶えて久しい。(古井由吉『蜩の声』「蜩の声」2011年)

あれももう何十年も昔になるか、つい先年のことにも思われるが、それはない。夜半にひとりで音楽に聞き入ることを、絶ったものだ。それまでにだいぶ長い習癖となっていたのが、ある夜、旋律がゆるやかな渦を巻いて沈黙の底へ吸い込まれて行くように聞こえるにつれて、寝静まった家の壁の内から、密閉したはずの窓の外から、音にもならぬほどの音がおもむろに、深いざわめきとなってふくらんで、 阿鼻叫喚の兆しをふくんで、いまにもなだれこんできそうになった。これはたまらんと音盤をすぐに停めたが、切迫は耳の奥にわだかまり、静まりをもとめながら狂奔を招き寄せていた かとおそれた。(古井由吉「時の刻み」『ゆらぐ玉の緒』2017年)



強度の差はあるだろうが、基本的にはこの感覚をもっていない人はダメである。蓮實風にいえば、「あなたに音楽を愛しているとは言わせない」だ。そんなヤツは、愛しているのではけっしてなくせいぜい好きでしかない。

古井由吉の言っている恐怖をいくら別の観点からいえば次のようなことだ。

夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術Kunst der Nacht und Halbnacht. という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番)


これは人類の発達史だけの話ではなく各個人の発達史であってもそうであり、母胎内ということは言わないでおいても乳幼児は生まれて1ヶ月から2ヶ月までのあいだは視力が極端に弱く薄明のなかを漂っており、そこで母の言葉を非意味の「もの」として聞いている。これが原初の音楽である。人の耳はこの起源のもとに発達していく。人が創造的であろうとして退行すれば、あのラルヴァ期のくらやみにうごめく音楽が聞こえてくるはずである、ときに恐怖をともなって。ときに皮膚がひきつるようになって。


こういった感覚がーーかりに何年かに一度でもーー訪れることがまったくなく音楽に対しているなら、バルトの言い方なら、音楽はストゥディウムの対象にすぎず、プンクトゥムの対象ではない。

ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第11章)

「観客」としての私は、それらに多かれ少なかれ快を認める。私はそこに私のストゥディウムを投入する(だがそれは決して享楽あるいは痛みではない)。Et moi, Spectator, je les reconnais avec plus ou moins de plaisir : j'y investis mon studium (qui n'est jamais ma jouissance ou ma douleur). (同第11章)


ストゥディウムとプンクトゥム

第一の要素〔・・・〕それは、ストゥディウム(studium) という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するるのではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味が含まれているのである)。


第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(ストゥディウムの場のように、私に帰属する意識を注ぐのではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。


ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた徴を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい句読点のようなものがあり、ときにはそれが班点状になってさえいるのだ。この徴、この傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum) と呼ぶことにしたい。


というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな染み、小さな裂け目のことでありーーしかもまた、般子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure ― et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章、1980年)



次の文にあらわれる「欲望の不意を襲う享楽」とは、まさにストゥディウムの不意を襲うプンクトゥムである。


享楽、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

『明るい部屋』のプンクトゥム punctum は、ストゥディウムに染みを作るものである。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才が、正当的なスタイルでそれを導き出した。〔・・・〕そしてこれは「現実界の効果」と呼ばれるものである。

Ce punctum […] qui fait tache dans le studium étale de l'image. Moi je prétends que c'est directement inspiré du Séminaire XI de Lacan, dans le style propre, le génie propre de Roland Barthes.[…]  qui s'appelle l'Effet de réel.  (J.-A. Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011)



これは全芸術に言える筈である。私の場合、他の芸術は音楽ほどの強度はないが。

バルトの「ストゥディウム/プンクトゥム」とは、1970年前後から強調しだした「快楽/享楽(悦楽)」の話にかかわるのは間違いない。


快楽のテキストと享楽のテキスト

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。


享楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。


Texte de plaisir : celui qui contente, emplit, donne de l'euphorie; celui qui vient de la culture, ne rompt pas avec elle, est hé à une pratique confortable de la lecture. Texte de jouissance : celui qui met en état de perte, celui qui déconforte (peut-être jusqu'à un certain ennui), fait vaciller les assises historiques, culturelles, psychologiques, du lecteur, la consistance de ses goûts, de ses valeurs et de ses souvenirs, met en crise son rapport au langage.(ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)


快楽の主体と享楽の身体

私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》ではない。私の《個体》である。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体である。

Chaque fois que j'essaye d'"analyser" un texte qui m'a donné du plaisir, ce n'est pas ma "subjectivité" que je retrouve, c'est mon "individu", la donnée qui fait mon corps séparé des autres corps et lui approprie sa souffrance et son plaisir: c'est mon corps de jouissance que je retrouve.

そして、この享楽の身体はまた私の歴史的主体である。なぜなら、伝記的、歴史的、神経症的要素(教育、社会階級、小児的形成、等々)が極めて微妙に結合しているからこそ、私は(文化的)快楽と(非文化的)享楽の矛盾した働きを調整するのであり、また、余りに遅く来たか、あるいは、余りに早く来たか(この余りには未練や失敗や不運を示しているのではなく、単にどこにもない場所に招いているだけだ)、現 に所を得ていない主体、時代錯誤的な、漂流している主体として自分自身を書くからである。

Et ce corps de jouissance est aussi mon sujet historique; car c'est au terme d'une combinatoire très fine d'éléments biographiques, historiques, sociologiques, névrotiques (éducation, classe sociale, configuration infantile, etc.) que je règle le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle), et que je m'écris comme un sujet actuellement mal placé, venu trop tard ou trop tôt (ce trop ne désignant ni un regret ni une faute ni une malchance, mais seulement invitant à une place nulle) : sujet anachronique, en dérive (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)




そしてこのバルトのいう「享楽の身体 corps de jouissance」が、最近くり返している「異者としての身体 corps étrangerーーフロイトの「異物Fremdkörper」ーーである。フロイトは時期によって種々の表現の仕方をしているが、最初期から最晩年まで使ったのはこの異物(異者としての身体)である。





大他者の享楽➡︎異者としての身体の享楽

ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [] est hors corps,  la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique,  (ラカン、三人目の女 La troisième1er Novembre 1974

大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967

大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, [] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009)

自己身体の享楽はあなたの身体を異者としての身体にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



快の領域のみの芸術愛好家は、ファルス享楽やナルシシズム的自我の享楽に耽っているにすぎない(参照)。


話を戻せば、同様なことは20歳のカフカだって言っている。


ぼくらの内の氷結した海を砕く斧

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)



すなわち、自分を咬んだり刺したりするような本を求めないたんなる快楽主義者には、こう言わねばならない、ーー「あなたに書物を愛しているとは言わせない」。

芸術は自らの幽霊との交わりの相(アスペクト)がーーそれが稀にしろーーなければ何のための芸術だというのか。ウィトゲンシュタインが言った「亡霊たちのざわめき Geräusch der Gespenster」、中井久夫の言った「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」がなくて。


手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…


手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)



もっとも慰安のための芸術をまったく否定するものではないが。それはそれで価値がある。


粗悪な音楽を嫌悪しよう、だが軽蔑することなかれ。いい音楽よりもはるかに情熱的に演奏されれば、粗悪な音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。たぶんそれは尊いものだ。粗悪音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は測り知れない。

Détestez la mauvaise musique, ne la méprisez pas. Comme on la joue, la chante bien plus, bien plus passionnément que la bonne, bien plus qu’elle s’est peu à peu remplie du rêve et des larmes des hommes. Qu’elle vous soit par là vénérable. Sa place, nulle dans l’histoire de l’Art, est immense dans l’histoire sentimentale des sociétés. (プルースト『粗悪音楽礼賛 Eloge de la mauvaise musique」『ジャン・サントゥイユ』1896年)