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2020年10月6日火曜日

痛みとは遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない

 


痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、異者性・親密性・遠くにあるものの相貌である。la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, […] de l'étrangeté, de l'intime, des lointains. (Michel Schneider La tombée du jour : Schumann)

最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (Michel Schneider La tombée du jour : Schumann, 1989)


次の文はネット上では原文を見出せなかったが、「痛みとは遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない」という文はとっても好みだ。


痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)




ここでバルトに登場願おう。


喪は緩慢な作業によって徐々に痛みを拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は喪失の感情を取り除いてくれる、ただそれだけにすぎない(私は単に喪失を嘆いているのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。On dit que le deuil, par son travail progressif, efface lentement la douleur ; je ne pouvais, je ne puis le croire ; car, pour moi, le Temps élimine l’émotion de la perte (je ne pleure pas), c’est tout. Pour le reste, tout est resté immobile. (ロラン・バルト『明るい部屋』第31章「「家族」、「母」」)

「観客」としての私は、それらに多かれ少なかれ快を認める。私はそこに私のストゥディウムを投入する(それは決して享楽あるいは痛みではない)。

Et moi, Spectator, je les reconnais avec plus ou moins de plaisir : j'y investis mon studium (qui n'est jamais ma jouissance ou ma douleur). (ロラン・バルト『明るい部屋』第11章「ストゥディウム」1980年)


ーーストゥディウムは享楽あるいは痛みではないと言っているということは、プンクトゥム が享楽・痛みだということだ➡︎プンクトゥムという享楽・痛みの徴



疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に享楽はある。

Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur(Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)


ーーここでラカンが言っていることは、フロイトの「痛みのなかの快 Schmerzlust 」が起源。


ミシェル・シュネデールの言っていることが、バルトのプンクトゥム やラカンの享楽と完全に合致するというつもりは毛頭ないが、似たようなことを言っているのは確かだ。


たとえば冒頭に引用した《最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. .》 とは、フロイトラカンの異物(異者としての身体Fremdkörper)に依拠しているに違いない。


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



「異物 Fremdkörper 」は人みながもっている「幻影肢 Phantomschmerz」だ。この幻影の痛みは少し前に記した、自我から「排除された異者」とピッタリである。


そしてこれがラカンの外密(フロイトの「不気味なもの」)である。


私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)

このモノは分離されており、異者の特性がある。〔・・・〕モノの概念、それは異者としてのモノである。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  […] La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

外密 extimitéという語は、親密を基礎として作られている。外密は親密の反対ではない。それは最も親密なものでさえある。外密は、最も親密でありながら外部 にある。外密は、「異者としての身体 corps étranger」のモデルである。…外密はフロイトが 「不気味なもの  l'Unheimlich」のなかの例として取り上げたものである。

Ce terme d'extimité est construit sur celui d'intimité. Ce n'est pas le contraire car l'extime c'est bien l'intime.[…]  c'est que le plus intime est à l'extérieur. Il est du type, du modèle corps étranger.[…] c'est […] Freud en avait pris exemple dans l'Unheimlich.(J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)