このブログを検索

2020年10月5日月曜日

死の欲動と女性器への意志

マドレーヌと女性器」にて、プルーストのプチット・マドレーヌのレミニサンスは女性器のレミニサンス、母胎のレミニサンスを暗示していることを示したが、ここではフロイトラカンの女性器・母胎をめぐる。

……………

フロイトは「死の欲動」概念を1920年の『快原理の彼岸』にて初めて提出したが、実はその前年の『不気味なもの』において、その内実が最もナマの形で表現されている。

不気味なもの=内的反復強迫

いかに同一のももの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。

Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


この幼児期の心的生活から導き出しうる内的反復強迫こそ、フロイトの死の欲動の核心である。


反復強迫=死の欲動=秘密の親しいものの回帰

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

不気味なものは秘密の親しいものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)



ところで人みながもつ最も秘密の親しいものは何だろうか? 実は誰もがそれを知っている。


女性器は不気味なものである

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 


しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.

「愛は郷愁だ」とジョークは言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,


そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. 

したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。


Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. 

(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)



フロイトは1921年以降、自らの死の欲動概念について問い直しつつ彷徨った。そのためむしろフロイトの読み手にとってわかりにくくなった。


たとえば1937年の『終わりある分析と終わりなき分析』には、「エロス欲動とタナトス欲動」が「融合欲動と分離欲動」として示されている。だがそうではないのである。むしろ融合を目指すエロス欲動こそ死の欲動である➡︎なぜエロス欲動は死の欲動なのか」。


ラカンがフロイトを精密に読むことによって、フロイトの欲動二元論ではなく欲動一元論をとったのは正しい。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)


そしてラカンにとってエロス欲動こそ享楽としての死の欲動である。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)


この大他者は前期ラカンの言語の大他者ではけっしてなく、身体である。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps!] (ラカン、S14, 10 Mai 1967)


そしてこの身体は穴が空いている。


身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


ラカンは大他者の享楽を最初は[JA ]と示していたが、1975年12月16日のサントームのセミネールで[JȺ]として示すようになる。これが穴Ⱥの享楽、身体の穴の享楽である。




ラカンにおける穴が空いた身体とは、原抑圧=固着によって喪われた身体という意味をもつ。フロイトの直接的表現なら、自我から分離された残滓としての異物(異者としての身体 Fremdkörper )である(参照:モノ異者文献)。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…それは原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt,(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)


今引用した文のなかに、原抑圧(固着)、異者、穴という語彙が出現するが、これは同じ内実を持っている。不気味なものも同様である。このところ何度か掲げているが、以下の語彙群表現群は縦横ほぼ同じ意味をもっている。




ラカンの「享楽の穴」とはフロイトの「愛の引力」である。穴=トラウマとは究極的には、かつて自らの身体だとみなしていた母の身体、これが「喪われた身体=異者としての身体」にかかわる。この身体を取り戻そうとする、生きている存在には不可能な運動が「エロス欲動=死の欲動」であり、享楽の意志である。


享楽の意志は死への意志である

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion.. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


とはいえフロイト自身においても、死の枕元にあったとされる草稿に次の記述を見出だすことができる。


母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleib

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ここで1920年の欲動の定義に戻ってみよう。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)


あるいは《生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. 》(フロイト『快原理の彼岸』第5章)とさえある。これはエロス欲動は死の欲動だと言っているに等しい。


究極の以前の状態とは何かは誰もが知っている。そうではなかろうか?

ラカンの「享楽回帰」、原享楽状態を回復しようとする運動は「母胎回帰」である。


享楽回帰=母胎回帰

反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。フロイトは断言している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[il y a déperdition de jouissance.]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能[la fonction de l'objet perdu]がある。これがフロイトだ。…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。〔・・・〕享楽の対象[Objet de jouissance]としてのフロイトのモノ [La Chose]…それは、喪われた対象[objet perdu]である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)


喪われた胎盤、これが究極の享楽の対象 Objet de jouissanceであり、愛の対象(エロスの対象 erotische Objekt)である。


以上、エロス欲動としての享楽の意志とは母胎への意志、かつて最も親しかった女性器への意志であることを示した。それは男も女もそうである。人はみなこのエスの原無意識に対して防衛しつつ生きている。これがフロイトラカン理論の核である。


たとえば女性において自傷行為が男に比べ格段に多いのは、少なくともその理由のある割合において、喪われた母なる身体の代理物を自ら抱えているためではなかろうか。


主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)

究極的には死とリビドーは繋がっている finalement la mort et la libido ont partie liée (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)


享楽=リビドー=愛のエネルギー=死へのエネルギー

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である 。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)