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2020年10月5日月曜日

閉じた眼


私はそれをじっとながめるのであった、よく見るのであった、しかし、それが、どうしても私の精神の力ではつかみだせなかったある何物かを秘めているのを、私の精神は感じるのだ、あたかもそれは、あまり奥へはいったのでわれわれが腕をのばし指をひろげてとどかそうとしてそれをつつんでいるものにたまに軽くふれる程度で何もつかめないそんな品物に似ていた。そんなときわれわれは腕をもっと強くまえに突きだし、もっと奥へとどくように努力しようとして、ひととき休息をとるものだ。


私はひととき眼を閉じるのだった。何も考えずに私はそのままじっとしていた、それから、ふたたび集中され、もっと強い力をとりもどした思考でもって、その方向へ、というよりも心のなかでその一端からそれをながめているその内部の方向へ、いっそう深くとびこんだ。またしても、その背後に、さっきとおなじ、見おぼえのある漠然とした対象を感じたが、私はそれを自分にひきよせることはできなかった。


それは私の生活のあまりに遠い年月から出てきたので、それをとりまく風景は、私の記憶からまったく消失してしまって、読んだこともなかったと思う作品のなかに見出してはっとおどろくあのページのように、私の幼年時代の忘れられた書物のなかから、それだけが浮かびあがっていると考えなくてはならないのであろうか? 


私にはわからなかった。そうするうちにも、それは私のほうに近づいてきた、おそらくその神託を私に告げているのだ。私はむしろそれが、過去の幻影、私の幼年時代の親しい仲間、共通の回想を呼びだす消えさった友人たちなのだ、と思った。亡霊のように、それは、私といっしょに自分を連れていってくれ、生きかえらせてくれ、と私にたのんでいるように思われるのであった。その素朴な、情熱的な身ぶりのなかに、愛されながら言葉をつかう力を失った人、言いたいことが相手に通じない、相手も察してくれないと感じる人の、無力なくやしさを、私は読みとるのであった。


やがてある十字路で、私はそれを見すてた。それだけが真実であると私が思っていたもの、私をほんとうに幸福にしてくれたであろうと私が思っていたものから、私は遠くに離れてゆくのであった、それは私の人生のコースに似ていた。


私はそれが必死のいきおいでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見た、それはこういっているようだった、 あなたがきょう私から読みとらなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してあなたのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私を振りすてて行くなら、あなたにもってきてあげたあなた自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。それが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれを見たことがあったのか、それを私はどうしても知ることができなかった。そしてわかれ道にはいってから、私はそれに背を向け、それを見るのをやめた。私は、いましがた友人を失ったか、私自身を永久に見すてたかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、ある神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように悲しかった。