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2020年10月4日日曜日

文体とはどもること

 昨日高橋悠治を聴いていたら「文体とはどもること」を急に思い出した。なかば忘れかけていたドゥルーズ の言葉だが、記念にもう少し長く引用しておく。仏原文も見出したのでそれもあわせて。


文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。私にとって最も印象的な例:カフカ、ベケット、ゲラシム・ルカ、ゴダール 。

Un style, c’est arriver à bégayer dans sa propre langue. C’est difficile parce qu’il faut qu’il y ait nécessité d’un tel bégaiement. Non pas être bègue dans sa parole, mais être bègue du langage lui-même. Etre comme un étranger dans sa propre langue. Faire une ligne de fuite. Les exemples les plus frappants pour moi: Kafka, Beckett, Gherasim Luca, Godard.

ゲラシム・ルカは最も偉大な詩人の一人である。彼は驚くべき吃り方、彼自身の吃り方を創案した。彼は自らの詩を聴衆の面前で読む機会があった。200人の聴衆であるが、それはひとつの出来事であった。それはいかなる学派や運動にも属さない、この200人を通過していくだろうひとつの出来事なのである。物事は、それが起こると信じられているところでは決して起きないし、そうと信じられている道を通過していくことも決してない。

Gherasim Luca est un grand poète parmi les plus grands: il a inventé un prodigieux bégaiement, le sien. Il lui est arrivé de faire des lectures publiques de ses poèmes; deux cents personnes, et pourtant c’était un événement, c’est un événement qui passera par ces deux cents, n’appartenant à aucune école ou mouvement. Jamais les choses ne se passent là où on croit, ni par les chemins qu’on croit.

 〔・・・〕


➡︎ Il poeta Ghérasim Luca legge "Passionnément"


一国語のなかでさえもバイリンガルにならなければならない。自らの言語の内に少数者の言語をもたなければならない。自国語そのものから少数者の用法をつくり出さねばならない。〔・・・〕自国語そのものの中で、外国人のように話すことだ。

Nous devons être bilingue même en une seule langue, nous devons avoir une langue mineure à l’intérieur de notre langue, nous devons faire de notre propre langue un usage mineur. […] parler dans sa langue à soi comme un étranger.


プルーストは言った、《美しい書物はある種の外国語で書かれている。一つ一つの言葉の中に私たちは、思い思いの意味や少なくともイメージを込めるのだが、それらはたいていの場合、誤読なのだ。しかし、美しい本においては、全ての誤読が美しい。》(プルースト  『サント=ブーヴに反駁する』)〔・・・〕

Proust dit: "Les beaux livres sont écrits dans une sorte de langue étrangère. Sous chaque mot chacun de nous met son sens ou du moins son image qui est souvent un contresens. Mais dans les beaux livres tous les contresens qu’on fait sont beaux."[…]

「美しい書物は一種の外国語で書かれている・・・」これが文体の定義だ。これはまた生成変化の問題だ。人々はつねに多数者の未来を想う(私が偉くなったら、権力をもった時には・・・)。だが、問題は「マイノリティ=なること devenir-minoritaire」にかかわる。子供、狂人、女性、動物、どもり、あるいは外国人、彼らのふりをするのではない。彼らをつくり出すのでも模倣するのでもない。新たな力、新たな武器を創出するために、それらすべてになることである。

" Les beaux livres sont écrits dans une sorte de langue étrangère..." C’est la définition du style. Là aussi c’est une question de devenir. Les gens pensent toujours à un avenir majoritaire (quand je serai grand, quand j’aurai le pouvoir...). Alors que le problème est celui d’un devenir-minoritaire: non pas faire semblant, non pas faire ou imiter l’enfant, le fou, la femme, l’animal, le bègue ou l’étranger, mais devenir tout cela, pour inventer de nouvelles forces ou de nouvelles armes.

(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』Gilles Deleuze et Claire Parnet, Dialogues, 1977)





◼️付記


ゴダールの方法

ゴダールの方法において連合が問題ではない。あるイマージュが与えられた場合、次のイマージュは、二つのイマージュの「間に」 裂け目を誘導するものが選ばれなくてはならない。それは連合の作用ではなく、差異化の作用である。dans la méthode de Godard, il ne s'agit pas d'association. Une image étant donnée, il s'agit de choisir une autre image qui induira un interstice entre les deux. Ce n'est pas une opération d'association, mais de différentiation, (ドゥルーズ『シネマⅡ』1985年)


プルーストの方法

芸術作品の中に示されるような本質とは何であろうか。それは差異、究極的な、絶対的な差異である C'est une différence, la Différence ultime et absolue。 それは存在を構成するもの、われわれに存在を考えさせるものである。それが、本質をあらわに示す限りでの芸術だけが、生活の中でわれわれが求めても得られなかったものを与えることを可能にする理由である。《生活や航海の中では求めても得られなかった多様性diversité ……》 《差異の世界 Le monde des différences は、われわれの知覚が一様なものにするあらゆる国ぐにの間で、地上の表面には存在しないのであるから、まして社交界の中には存在しない。それはどこかほかのところに存在するのだろうか。ヴァントゥイユの七重重奏曲は、この問に対して、存在すると答えているように思われた。Le septuor de Vinteuil avait semblé me dire que oui》(「囚われの女」)

だが究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異 différence qualitative qu'il y a dans la façon dont nous apparaît le monde, différence qui, s'il n'y avait pas l'art, resterait le secret éternel de chacun》(「見出された時」)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第4章「Les SIgnes de l'art et l'Essence 」第2版1970年)

反復とは…一般的差異から単独的差異へ、外的差異から内的差異への移行として理解される。要するに、差異の差異化としての反復である。la répétition comme passage d'un état des différences générales à la dillérence singulière, des différences extérieures à la différence interne ― bref la répétition comme le différenciant de la différence. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968年)




◼️基本版


文体とは何か

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。

もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。

傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年『アリアドネからの糸』所収)


 

高橋悠治のスタイルはたとえば武満徹の次の言葉が血肉化されている筈である。


私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)