しばらくぶりにツイッターを眺めると「反知性主義」という語が流通しているが、もともとツイッターというのは反知性主義システムではないだろうか。少なくともRTやハッシュタグなどで脊髄反応的に共感の輪を拡げる装置という相(アスペクト)において、まがいようもなくアンチ知性システムである。
本来の知とは次のような態度をもつ筈である。
人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』) |
人が私に同意するときはいつも、私は自分が間違っているに違いないと感じる。Whenever people agree with me I always feel I must be wrong. (オスカー・ワイルド『ウィンダミア卿夫人の扇』1892年) |
フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。(中井久夫「書評の書評」) |
すなわち本来の知とは、伝染力の強い浅薄な理解=誤解を嫌悪するものである。だがツイッターはその逆を促す相を大いにもつ装置である。 |
浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」) |
ツイッターが日本に導入されてからリベラル左翼のポジションにいるつもりらしき「知識人」の劣化がことさら激しい。たとえば内田樹氏である。
反知性主義の反対語はなんだろう。それはけっして専門知ではない。総合知である。欧米語のサイエンスはラテン語の scientia に発して「知」ということであり、本来、「総合知」と訳すべき語である。だがこの語自体、広く浅くというイメージを惹起しがちである。
現在、誰もが個人で総合知をもつのは難しい。学術会議のような組織は蛸壷化した専門知を横のつながりによって、総合化することに意味がある。そうでなければ、学術会議そのものが反知性主義団体にすぎない。問うべきは学術会議は総合知の機能をもとうとする組織なのかどうかである。
たとえば日本における「世界一の少子高齢化」にともなった次の現象は、経済知の対象だけではけっしてなく総合知の対象である。
だが数多ある学者団体がこの現象に正面から立ち向かっている気配は私にはまったく感じられない。
そもそも内田樹氏のように「反知性主義者」として定評のある人物ーーたとえば「蓮實重彦」によるもの、たとえば「藤田博史」によるものがあるが、これは最も痛烈な批判というだけであり、その他もろもろの小粒の批判がかつてからあるーーが、現政権の日本学術会議の会員任命拒否を「反知性主義」と批判するというのは滑稽でしかない。
浅田彰には「知とは何か」という東京大学での講演(2001年)があるが、浅田がそこで言うように、内田樹氏は、多くの学者たちと同様、いやそれ以上に、生徒に媚び、読者に媚びているのが瞭然としている物書きである。 |
自分はそもそも、近代はすばらしいと言っていた人に対して、近代にも様々な問題はあるし、近代が忘れてきた様々な問題をもう一回考える必要があるという立場だった。しかし気づいてみると近代こそが最低限の常識だ、という頑固親父がいなくなって、近代は絶対ではないとか、公教育というけれども情報量を詰め込むより生きる力をつけなければなどと言っている。今は、学校が妙に生徒に媚びて、やるべき情報の伝達もせず、もちろん生きる力もつかないといった袋小路に入りつつある。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」2001年) |
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以下、プルーストとフロイトを列挙しておこう。こういう文を引用すると自らに跳ね返ってくる面がかならずあるのだが、ここでは主にツイッター知識人=芸能人批判として掲げる。
外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする |
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」) |
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われわれに似そこなっている人間がそそる反発 |
われわれとは正反対の人間よりも、むしろわれわれに似そこなっている人間がそそる反発がそれであって、われわれはそういった人間のなかに自分がもっているよくない部分を見せつけられるのであり、自分がやっとそこから救われた欠点が、いまの状態になるまでに自分が人からそう思われていたにちがいなかったものをいまいましく思いださせるのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
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自己を語る一つの遠まわしの方法 |
ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[c'est toujours de ces défauts-là qu'on parle, comme si c'était une manière de parler de soi détournée, et qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer]。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。 |
それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている[ce n'est pas seulement quand nous parlons de nous que nous croyons les autres aveugles ; nous agissons comme s'ils l'étaient.]われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
自己非難の他人への投射 |
他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ必要である。[Eine Reihe von Vorwürfen gegen andere Personen läßt eine Reihe von Selbstvorwürfen des gleichen Inhalts vermuten. Man braucht nur jeden einzelnen Vorwurf auf die eigene Person des Redners zurückzuwenden. ] 自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返しRetourkutschen」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。 パラノイアでは、このような他人への非難の投射は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである[In der Paranoia wird diese Projektion des Vorwurfes auf einen anderen ohne Inhaltsveränderung und somit ohne Anlehnung an die Realität als wahnbildender Vorgang manifest.]。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年) |
ところで、嫉妬妄想をもつ患者や追跡妄想をもつ患者が、内心に認めたくないことがあって、それをほかの他人に投射projizierenするのだと、われわれがいっても、それだけでは彼らの態度を充分には述べてはいないように思われる。 投射することは確かだが、彼らはあてなしに投射するわけではないし、似ても似つかぬもののあるところに投射するのでない。彼らは自分の無意識的知に導かれて、他人の無意識に注意を移行させる。彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。 われわれの見た嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年) |