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2020年11月26日木曜日

廃墟となった愛

 フロイトとラカンを同時に読むためには、基本的語彙の関係をある程度つかまなくてはならないが、かなり長くラカンにかかわっているらしき人でもーー研究者でさえーーそれができていない人が多いように見える。

基本はここである。

フロイトの愛(リーベLiebe)は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)



※参照

「リビドー・愛・享楽」は同じ意味

ファルスの意味作用と残滓




たとえばフロイトはこう言っている。


◼️反復強迫[Wiederholungszwang]と愛の喪失[ Liebesverlust]

反復強迫はなんらかの快の見込みのない過去の体験、すなわち、その当時にも満足ではありえなかったし、ひきつづき抑圧された欲動蠢動でさえありえなかった過去の体験を再現する。daß der Wiederholungszwang auch solche Erlebnisse der Vergangenheit wiederbringt, die keine Lustmöglichkeit enthalten, die auch damals nicht Befriedigungen, selbst nicht von seither verdrängten Triebregungen, gewesen sein können. 


幼時の性生活の早期開花は、その願望が現実と調和しないことと、子供の発達段階に適合しないことのために、失敗するように運命づけられている。それは深い痛みの感覚をもって、最も厄介な条件の下で消滅したのである。この愛の喪失と失敗とは、ナルシシズム的傷痕として、自我感情の永続的な傷害を残す。Die Frühblüte des infantilen Sexuallebens war infolge der Unverträglichkeit ihrer Wünsche mit der Realität und der Unzulänglichkeit der kindlichen Entwicklungsstufe zum Untergang bestimmt. Sie ging bei den peinlichsten Anlässen unter tief schmerzlichen Empfindungen zugrunde. Der Liebesverlust und das Mißlingen hinterließen eine dauernde Beeinträchtigung des Selbstgefühls als narzißtische Narbe,(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


そしてフロイトの反復強迫[Wiederholungszwang]と愛の喪失[ Liebesverlust]を、ラカンは次の文で、享楽回帰[retour de la jouissance]と享楽の喪失[déperdition de jouissance]と言い換えているのである。


◼️享楽回帰[retour de la jouissance]と享楽の喪失[déperdition de jouissance]

反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは断言している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD].   〔・・・〕


フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)




したがって「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」とは、「廃墟となった愛」である。これを別名「穴としての愛」と呼ぶこともできる。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別をした。… これは、穴としての享楽[la jouissance  comme trou]と、穴埋めとしての剰余享楽  [le plus-de-jouir comme bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)



次の文に現れる「欲動の現実界 un réel pulsionnel 」は、現実界の享楽[la Jouissance du réel](ラカン, S23, 10 Février 1976)と同じ意味である。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧(=固着)と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



要するにリアルな愛とは、「愛の穴」であり「愛のトラウマ」である。その穴を埋めようと「妄想」するのがーーここでは厳密さを期さずにおおよそで言えばーー、シンボリックな欲望、イマジネールな愛(ナルシシズムあるいは被愛妄想)である。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)