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2020年12月1日火曜日

きみきみ、牡蠣の身がよく見えるよ

 きみきみ、とってもよく見えるよ


想定された本能的(欲動的)ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史(個人史)のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される。[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)

人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)




牡蠣の身は他人のほうがずっとよく見えることが多いからな。


真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。Für seinen Eigener ist nämlich alles Eigene gut versteckt; und von allen Schatzgruben wird die eigne am spätesten ausgegraben, - also schafft es der Geist der Schwere. 〔・・・〕


まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。- also dass eine edle Schale mit edler Zierath fürbitten muss. Aber auch diese Kunst muss man lernen: Schale _haben_ und schönen Schein und kluge Blindheit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「重さの霊」1884年)