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2020年12月3日木曜日

オメコ思想家


ああ、きみは「吹き出しテロップ」が必要な世代の成れの果てなんだろうな


◆北野武が語る「暴力の時代」

―監督は先ほど「エンターテイメントに徹している」と仰いましたよね。今言われたような編集で間を詰めるということと、エンターテイメント性というものは、監督の中では繋がっているものなんでしょうか?


北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。


―なるほど。


北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。




で、前回のこの文も、耳の不自由な方向けのようにして丁寧に言わないとわかんねえのか。


ヒステリーとは異なり女性のポジションは裂け目を埋めない。裂け目を可視的なままにする、自らの存在を為すために。ミレール曰く、《突き詰めれば、真の女は常にメドゥーサ である》。女性の裂け目の享楽[la jouissance de la béance féminine]、穴の享楽[la jouissance du trou]、無の享楽、空虚の享楽[du rien, du vide]、それは根源的放棄へと導きうる。(Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019)


女性の裂け目の享楽[la jouissance de la béance féminine]と訳したのがまずかったかね、せめて「女性の裂孔の享楽」としといたらヨカッタカネ。


我、汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死をもいとわじ。Rimula, dispeream, ni monogramma tua est.(テオドール・ド・ベーズ Théodore de Bèzeーーモンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章より)



なあ、究極の解剖学的意味での「メドゥーサの享楽=女性の享楽=女性の裂孔の享楽=穴の享楽」は、女性器の享楽、子宮の享楽だよ、それをダイレクトに言っちゃあオシマイのところであるからあまり言わないだけで。


(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首は女性器を代表象する。das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, . (フロイト『メデューサの首 Das Medusenhaupt』(1940 [1922])  




ラカンは前期にはしばしば言ったが、後年はほとんど言わなくなったな、フェミがうるさくなったせいか、当たり前すぎて退屈したのか。


アリストテレスは既にヒステリーを次の事実を基盤とした理論として考えた。すなわち、子宮は女の身体の内部に住む小さな動物であり、何か食べ物を与えないとひどく擾乱すると。Déjà ARISTOTE donnait de l'hystérique une théorie fondée sur le fait que l'utérus était un petit animal qui vivait à l'intérieur du corps de la femme  et qui remuait salement fort quand on ne lui donnait pas de quoi bouffer.   (Lacan, S2, 18 Mai 1955)

女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse  (Lacan, S4, 27 Février 1957)




男と女の相違を考える上で、オチンチンとオメコのことを外すなんてイミフだがね、ボクに言わせれば。


メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名  」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール Colette Soler, Humanisation ? , 2014)


ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの 』1919年)




そもそもフロイトやラカンってのはオメコ思想家だよ、そのあたりの去勢された学者やら分析家やらが「科学的に」タラタラ解説してるようなもんじゃまったくない。


男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。

Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『新精神分析入門講義』1933年)

女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、男性とはその発展のぐあいが異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus]の高まりが現われてくるように見える。〔・・・〕このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない[Solche Frauen lieben, strenggenommen, nur sich selbst mit ähnlicher Intensität, wie der Mann sie liebt. ]。


彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. (フロイト『ナルシシズム入門』1914年)



ラカンの性別化の式だって科学の道に迷った帰結だよ、➡︎「道に迷ったラカン」。


人の生ってのは喪われたオメコの周り循環している以外の何ものでもない。


喪われ対象aの機能の形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (ラカン、S11, 13 Mai 1964)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深い喪われた対象を徴示する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン, S11, 20 Mai 1964)


オメコがベースなのは後年になってもどこも変わっていない。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。…原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。…人は臍の緒によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤によってである。…臍は聖痕である。


il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels. La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse…que quelqu'un s'est trouvé en quelque sorte suspendu[…]  pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta.…l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)



ラカンというのは最も基盤のところではフロイトのヴァリエーションを言っているだけ。


生の目標は死である。.…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。Das Ziel alles Lebens ist der Tod […] der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



あらゆるところにその痕跡がある。


出産外傷 Das Trauma der Geburt、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなう。…これが「原トラウマ Urtrauma」である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)

原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつてAの形態[ la forme A]を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


享楽の対象[Objet de jouissance] …このモノ La Choseは…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

母という対象 Objekt der Mutter…この喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年、摘要)




何はともあれ、オメコとオチンチン外すなら、神さまにお願いして、第三の性にしてもらったらどうだろ、人間全部をな。



私は先週言ったことにかなり悩まされている。あれは、第三の性が必要だといいことだ。この第三の性は、他の二つの性の存在のもとにはありえないな。Je suis plutôt embêté de ce que je vous ai annoncé la dernière fois, à savoir qu'il faut un troisième sexe.  Ce troisième sexe ne peut pas subsister en présence des deux autres.  (Lacan, S26, 16 janvier 1979)


ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。

La métaphore du nœud borroméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le symbolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'essentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser.(ラカン, S26, La topologie et le temps, 9 janvier 1979)