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2020年12月3日木曜日

身体と言語

 基本のところが間違ってるよ、それ。

精神分析であろうとなかろうと、人間は「身体と言語」で成り立っているのは誰もが知っているはず。



アンコールのラカンは言語の裂け目に現れるものとして身体を考えた。アンコール以後の後期ラカンは身体のアナーキーに対する防衛として言語を考えた。

そもそも発達段階的に考えれば「最初に身体ありき」に決まっている。これはごく初歩的なマズローの考え方とそれほど変わりはない。



ーーもちろんあくまで「それほど変わりはない」だけであって、フロイトラカン的には、たとえば最上部の「自己実現」の自己って何?という話になるのだが。

自己は《影と反映の形象 figure que d'ombres et de reflets.》(Lacan, E 11、1956)に過ぎない。あるいは《「自己Self」とは、主体性の実体的中核のフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)。

ラカン派でなくてもたとえばカントやヘーゲルも同様。

しかし、この学(自我心理学)の根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全く空虚な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。


Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet.  (カント『純粋理性批判』)



話を戻せば、ラカン派がなぜ冒頭図のようにシンプルに図示しないかと言えば、ラカンはイマジネールな身体から始めたから(このイマジネールは言語によって構造化されており、上部の言語内に位置付けられる)。


ラカニアンの身体は、第一に鏡像段階の身体である。この身体は「イマジネールな身体 corps imaginaire」である。他方、身体の新しい地位は、享楽の支えとなる身体であり、「他の身体 autre corps」である。この身体は鏡像イマージュに還元される身体ではあり得ない。


Le corps lacanien, c'est d'abord le corps du Stade du miroir, [...]  c'est essentiellement un corps imaginaire. Le nouveau statut du corps, [...] c'est le corps qui devient le support de la jouissance et c'est un autre corps, ça ne peut pas être un corps qui est réduit à son image spéculaire. J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN -09/03/2011)



この「イマジネールな身体」とは異なる「他の身体 autre corps」をラカンは「ひとりの女」と呼んだのである。


ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)


穴を為す身体とは、リアルな身体、享楽の身体のこと。


現実界は…穴=トラウマを為す。 le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

享楽自体、穴をを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである [la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite](J.-A. Miller, Religion, Psychoanalysis, 2003)


ーー別に「リビドーの身体 le corps libidinal」(「le corps pulsionnel 欲動の身体」)と呼んだりもする。


ラカンのファルスとは言語作用という意味であり(参照)、このファルスが欲動の身体(=女性の享楽)を飼い馴らす。したがって最も単純に示せばーーつまりイマジネールな身体とリアルな身体を混同しないように注意するならーー次のようになる。   



ーーここで示した意味での「女性の享楽」とは「身体の享楽」であり、男女両性にある享楽だというのは何度も繰り返した。


……………


※付記


もちろん後期ラカンの基本は上のようであっても、解剖学的女性特有の享楽をラカニアンが否定しているわけでは全くない。



女は欠如をエンジョイする。去勢を楽しむ。これは種々の形式をとる。わたしたちは哀れな女たちを知っている。男の幻想に囚われた女たちを。Elle peut jouir du manque, faire de la castration ses délices. Cela peut prendre des formes très diverses. On connaissait la femme pauvre, chère au fantasme masculin 〔・・・〕


そこにヒステリーの享楽がある。欠如を無に移行させ、誘惑を楽しむヴァージョンのなかで魅惑するものとして無を使う。Là est la jouissance de l'hystérique. Quand le manque est transformé en rien, il peut servir à charmer dans une version joyeuse de la séduction. 


しかし愛のよりラディカルなヴァージョンがある。そこでは女性自らを身体と魂に奉納するよう導く。犠牲にさえする。Mais une version plus radicale de l'amour peut aussi conduire une femme à se vouer corps et âme, jusqu'au sacrifice,〔・・・〕


ヒステリー とは異なり女性のポジションは裂け目を埋めない。裂け目を可視的なままにする、自らの存在を為すために。ミレール曰く、《突き詰めれば、真の女は常にメドゥーサ である》。女性の裂け目の享楽[la jouissance de la béance féminine]、穴の享楽[la jouissance du trou]、無の享楽、空虚の享楽、それは根源的放棄へと導きうる。


Cette position féminine, à la différence de celle de l'hystérique,[…] c'est ne pas combler le trou, laisser la béance apparente, en faire son être. « Allons jusqu'au bout – dit Jacques-Alain Miller – Une vraie femme, c'est toujours Médée »(Miller J.-A. « Médée à mi-dire », 1993) Eprouver la jouissance de la béance féminine, la jouissance du trou, du rien, du vide, peut conduire à un renoncement radical.〔・・・〕

文学や映画は、女性性における裂け目を行使するためにとことんまで行く女たちのあらゆる事例を提供している。現代の臨床に関しても、この去勢の享楽、無の享楽、空虚の享楽を証明する事例に不足はない。わたしたちはもはや美のヴェールの背後の去勢を無理して隠さない。La littérature et le cinéma nous offrent toutes sortes d'exemples de femmes qui vont jusqu'au bout pour faire valoir cette béance de la féminité. Quant à la clinique contemporaine, elle ne manque pas de cas qui témoignent de cette jouissance du moins, du rien, du vide.[…] On ne cache plus forcément son moins derrière le voile du beau. (Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019)