このブログを検索

2020年12月3日木曜日

芸術上の去勢者


古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるやうに――我我は誰でも我我自身の持つてゐるものを欲しがるものではない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』)


ーー「芸術上の去勢者」か、とってもいいね。


すこし前、プラトンの饗宴を読んだところだが、次の箇所とともに読むことができるな。

「エロスはそのなにかを欲しているのだろうか、それとも欲してはいないのだろうか?」「もちろん、欲しています」と彼は言った。「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか― 欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、何も欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、私には、このことが完全に必然的なことに思えるのだ。あなたはどう考える?」「賛成します」。(プラトン『饗宴』200a)

「さて」とソクラテスはおっしゃったそうだ、「今までに言われて一致を見たことを繰り返すことにしよう。エロスとは第一には、或るものの恋であり、第二には、彼に現在欠乏しているところの或るものの恋であるにほかなるまい?」。アガトンは「はい」と言ったそうだ。〔・・・〕

「ところで、彼の欠いているものや持っていないものを恋するということが認められてはいなかったかね」「はい」と彼は言ったそうだ。

「従ってエロスは美を欠いている者であり、それを持たぬ者であるということになる」「それは必然です」(プラトン『饗宴』200-201)




プルーストの「芸術の独身者」「芸術の飢餓症」とともに読むともっといいかも知れない。


人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源[la racine personnelle de notre propre impression]が 断たれてしまうのである。


われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。


それにひきかえ、さんざしとか教会とかを見たときの視覚がわれわれの内部にうがった小さなみぞを認めようとつとめるには、われわれはひどく困難をおぼえるのである。しかもわれわれはシンフォニーをふたたび演奏し、教会を見にふたたびその場所を訪れる、そしてついにはーー本来の生活を直視する勇気をもたず、そこから逃避して博識と呼ばれるもののなかに走りーー音楽や考古学に精通した愛好者とおなじ方法で、おなじ程度にまで、それらについての知識をえるだろう。したがって、いかに多くの人々が、そこまでにとどまり、自分の印象から何もひきださず、無益に、満たされずに、芸術の独身者[célibataires de l'art]として、老いてゆくことであろう! 彼らは未婚の女やなまけものがもつ悲しみを味わう、そうした悲しみを癒やすのは、受胎か仕事かであろう。


彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、プラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。


(……)そういう彼らも、笑止ではあるが、全面的に軽蔑すべきものではない。彼らは、芸術家を創造しようと欲する自然が着手した最初の試作(エッセー)なのであって、現に生存する種に先立って生きたがこんにちまで存続するようにつくられていなかった原生動物とおなじように、形をなさず、生育もしないのだ。優柔不断で、不毛のこれらの愛好者たちが、われわれの心にふれるものをもっているとしたら、それは最初期の飛行機に似ているからで、本体は離陸することができず、内部の装置は、発見を婚儀に残す秘法を欠き、ただ飛ぶ欲望だけをとどめていたというわけである。「ところできみ」とあなたの腕をとりながら、愛好者はつけくわえる、「ぼくはね、あれをきくのは八回目なんだけど、はっきりいって、まだそれが最後というわけじゃありませんよ。」まったくその通りで、彼らは芸術のなかにある真の養分を吸収しないから、つねに飢えを癒しえないあの病的飢餓症[boulimie qui ne les rassasie jamais]になやんで、たえず芸術的なよろこびを欲求するのだ。そこで彼らは、いつまでもつづけておなじ作品を喝采しに行き、おまけに、そこへ出かけることが、一つの義務、一つの行為を遂行しているものと思いこむ、あたかも他の人たちが重役会か、埋葬に出かけるように。(プルースト「見出されたとき」358ー360 )



ボクもそのケがないとはまったく言い難いが、

「ああ、なんて美しいんでしょう!」

のたぐいはあまりやらないほうがいいよ、

とくに未婚の美熟女系がよくやってるけどさ



すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である。daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)


しっかりヤッテれば、「ああなんて美しいんでしょう!」ってのは滅多に口に出なくなるんじゃないかね、ふつうは。


マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……(大江健三郎『人生の親戚』)


もっとも真の女性の場合は、いくらヤッテも、エロ残滓はけっして消費尽くされないのかもしれないけど。


性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)