恋愛の死を想はせるのは進化論的根拠を持つてゐるのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の為に刺し殺されてしまふのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかつた。(芥川龍之介『侏儒の言葉』) |
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そうか、カマキリの話は知っていたが、蜘蛛や蜂もそうなのか ・「事が終わったオスは爆死?」 こういったことに関心があるってのは、次のような感慨をひそかにでも抱いたということなんだろうか。
ーー芥川はとっても巨根だったらしいが。
いずれにしろとってもよく勉強してるね、芥川は。谷崎との論争でばかり名高い「文芸的な、余りに文芸的な」を初めてまともにジックリと読んでみたがーー40年ほど前それなりに感心して読んだのだが実際は何も読んでいなかったねーー、つくづくそう感じたな。 ここで本質的でない文のみをーーいやひょっとして最も本質かも知れないーー二文掲げておこう。
何はともあれ100年前の彼に一般知識でさえ大きく負けてるな、と感じることが多い。気合いの入り方がまったく違うのだから、当たり前かも知れないけど。 |
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結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』) |
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結婚とは、性器の使用を一方が他方に交互に許す権利の契約である。 "Die Ehe ist ein Rechtsbündnis zum wechselseitigen Gebrauch der Geschlechtsorgane."(カント) |
現代日本に芥川ぐらい気合いが入った作家っているのかね
ツイッターなんかたまに眺めると、
すぐさま殴ってやりたくなるようなヤツしか見当たらないが
そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。(芥川龍之介「歯車」) |
或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。 僕 それは僕の責任ではない。 或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か? 僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。 僕 僕は偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我の強いワグネルでさへ。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿) |
結局、本が売れなくなったので、
読者に媚ざるを得なくなったのが、
作家のコモノ化の主因なんだろうけど。
たぶんインターネットのせいが大きいだろうな、
作家だけではなく芸術家のコモノ化、知識人のコモノ化だ。
公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』) |
作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」) |