このブログを検索

2020年12月4日金曜日

蜘蛛と蜂

 

恋愛の死を想はせるのは進化論的根拠を持つてゐるのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の為に刺し殺されてしまふのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかつた。(芥川龍之介『侏儒の言葉』)


そうか、カマキリの話は知っていたが、蜘蛛や蜂もそうなのか


・「あまりにも奇妙な「クモの交尾」の世界

・「事が終わったオスは爆死?


こういったことに関心があるってのは、次のような感慨をひそかにでも抱いたということなんだろうか。


男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。……もちろん女がパッションの過剰に囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20  Janvier  1960)           

女-母とは、交尾のあと雄を貪り喰うカマキリみたいなもんだよ。(ラカン、S10, 1963, 摘要)



ーー芥川はとっても巨根だったらしいが。


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕


社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)



実に知的かつ母なるまろやかさの印象を与える奥さんだな、すぐさま惚れちまうだろうな、こんな女に出会ったら。塚本文。塚本にも惚れたことがあるし文にも小学校五年のとき惚れたな。





いずれにしろとってもよく勉強してるね、芥川は。谷崎との論争でばかり名高い「文芸的な、余りに文芸的な」を初めてまともにジックリと読んでみたがーー40年ほど前それなりに感心して読んだのだが実際は何も読んでいなかったねーー、つくづくそう感じたな。


ここで本質的でない文のみをーーいやひょっとして最も本質かも知れないーー二文掲げておこう。


僕等は、――少くとも僕は紅毛人の書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐めずりをすることは出来ないのである。(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」)

僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気煥発する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋を右へ振つた。僕は怯づ怯づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。


「それから」「門」「行人」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡に住したかつたかも知れない。実際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。……」僕は実はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかつた。(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」)




何はともあれ100年前の彼に一般知識でさえ大きく負けてるな、と感じることが多い。気合いの入り方がまったく違うのだから、当たり前かも知れないけど。


結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

結婚とは、性器の使用を一方が他方に交互に許す権利の契約である。 "Die Ehe ist ein Rechtsbündnis zum wechselseitigen Gebrauch der Geschlechtsorgane."(カント)



現代日本に芥川ぐらい気合いが入った作家っているのかね

ツイッターなんかたまに眺めると、

すぐさま殴ってやりたくなるようなヤツしか見当たらないが



そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。(芥川龍之介「歯車」)

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。

僕 それは僕の責任ではない。

或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?

僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。

僕 僕は偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我の強いワグネルでさへ。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)



結局、本が売れなくなったので、

読者に媚ざるを得なくなったのが、

作家のコモノ化の主因なんだろうけど。

たぶんインターネットのせいが大きいだろうな、

作家だけではなく芸術家のコモノ化、知識人のコモノ化だ。



公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」)