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2020年12月12日土曜日

鼻のつやという愛の条件

 


フェティッシュの特異な事例としてしばしば取り上げられる「鼻のつや」の話がある。

鼻のつや Glanz auf der Nase ← 鼻への一瞥 Glance on the Nose

この数年のあいだに私は、何人かの男性で、フェティッシュに支配された対象選択[Objektwahl von einem Fetisch beherrscht war]をしている者を、分析的に研究する機会をもった。これらの人物は、フェティッシュが原因で分析を受けたととらないでいただきたい。というのは、フェティッシュは、確かにその信奉者から異常なものと認められてはいるのだが、病気の症状と感じとられていることはごく稀だからである。たいてい彼らはそのフェティッシュにまったく満足しており、あるいはかえって、彼らの愛の生[Liebesleben]に役立つ便宜さを高くかってさえいる。このようなわけで、フェティッシュは通例一つの副次的な所見にしかなっていなかった。〔・・・〕


最も奇妙だったのはある青年の事例で、彼はある種の 「鼻のつや」をフェティッシュ的条件[einen gewissen »Glanz auf der Nase« zur fetischistischen Bedingung]にしていた。この例は、つぎのような事実によって、その思いがけない真相が明らかになった。患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語はほとんど完全に忘れていた。この小児期の初期に由来しているフェティッシュは、ドイツ語ではなく、英語で読まれるベきもので、「鼻のつや」は、 本来「鼻への一瞥」[der »Glanz auf der Nase« war eigentlich ein »Blick auf die Nase« ( glance = Blick)]なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュとなっていたのである。


フェティッシュの意味と意図について分析した結果明らかになったことは、すべての症例において同一であった。それは、強いられることなく自然に明らかになったものであり、しかも、私には確信を強いるほどのものに思われたので、私は、一般にフェティシズムの例すべて[Lösung allgemein für alle Fälle von Fetischismus zu erwarten]にこれと同じ解答が当てはまるだろう、と思っている。ここで私が、フェティッシュはペニスの代理である[der Fetisch ist ein Penisersatz]といえば、きっと落胆をよび起こすであろう。そこで、急いで補足しておくが、これは任意のペニスではなく、小児時代の初期にはある大きな重要性をもっているが、後には失われるときめられた、まったく特殊なペニスの代理である。その意味は、普通なら当然断念されるべきであったのだが、それを没落から守るべく定められたのが、ほかならぬフェティッシュということである。さらに分かりやすくいえば、フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter)]。(フロイト『フェティシズムFetischismus』1927年)



今引用した後半箇所でわかるだろうように、鼻への一瞥とは女性のファルスへの一瞥でもある。


数多くの暗示にて鼻はペニスと等置される。Die Nase wird in zahlreichen Anspielungen dem Penis gleichgestellt(フロイト『夢解釈』第6章、1900年)

かつて渇望された対象、女のペニスへの固着は、子供の心的生に拭いがたい痕跡を残す。die Fixierung an das einst heiß begehrte Objekt, den Penis des Weibes, hinterläßt unauslöschliche Spuren im Seelenleben des Kindes(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)




ところでフロイトの「鼻のつや」は、ララングだというのが現代ラカン派の通説である。


たとえばピエール=ジル・ゲガーンの「一般化フェティシズム FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」論文にはこうある。


フロイトの鼻のつやは、対象選択の条件を支配するオペレーターであり、ララングの要素に還元しうる。

« brillant sur le nez »,[...] c'est-à-dire l'opérateur qui préside à la condition de choix d'objet, est réduit à un élément de lalangue, (Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ ,2010)


コレット・ソレールもほぼ同じことを言っている。


「鼻のつや」がある女性のみに魅惑される男の事例。これはララングを構成する機能にかかわり、ラカンが無意識のリアルと言ったものに相当する。 « brillant sur le nez». [...] la fonction constituante de lalangue [...]ce que Lacan dit du réel de l'inconscient (Colette Soler, La répétition provoquée 2010、摘要)


ジャック=アラン・ミレールは(私の知る限りで)ダイレクトには鼻のつやがララングだとは言っていないが、愛の条件に結びつけており、結局、愛の条件のリアルな固着を言っていることになる。


ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?


それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件、ラカンの欲望の原因です。これは固有の徴なのです。あるいはいくつかの徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛の選択に決定的な働きをするのです[ Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d'amour, la cause du désir. C'est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu'un une fonction déterminante dans le choix amoureux.]


これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの単独的で内密な個人の歴史にかかわります。この固有の徴はときには微細なものが含まれています。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。


――そんなつまらないもので愛が生まれるなんて信じられない!


無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因が愛のプロセスの引き金を引くのです。


ごく小さな特定のもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性の愛の対象選択に役割をはたします。でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です。女性たちは愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです[ Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement.]

(J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)


これらを受け入れるなら、ララングというのは現実界なのだから、鼻のつやは現実界的フェティッシュとなる。


ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外[hors chaîne] のものであり、したがって意味外[hors-sens]にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。そしてララングは謎のようにして享楽と混淆している。Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne), mais de uns qui, en outre, sont en coalescence énigmatique avec de la jouissance. (コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである(あるいは母の代理人の享楽に)。 le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère (ou de son substitut).(Geneviève Morel,  Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)




鼻のつやが現実界的フェティッシュならば、原症状としてのサントームとほぼ等置できる。そして本来の享楽としてのサントームは現実界であり、固着を通した反復なのだから、フェティッシュ的サントーム[le sinthome fétiche]と呼ぶことができる。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)



……………



実際のところ、ジャック=アラン・ミレールは、2009年にはフェティッシュとサントームの近似性を言うようになっている


倒錯は、対象a(フェティッシュとしての対象a ) のモデルを提供する[ C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a]。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮[ labyrinthes du désir] によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛[ le désir est défense contre la jouissance] だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。


倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない[ n'en passe pas par le fantasm]。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである[ La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen]。ここに、サントーム概念が見出される[c'est ce que retrouve le concept de sinthome]. 


(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない[Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme]。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)



5年前の2004年にはまだ次のように言っているだけである。


ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて、対象-原因[ objet-cause]を語った。…彼はフェティシストのフェティッシュによって、要するにフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして[par le fétiche du fétichiste, enfin, de la perversion fétichiste] 、この「欲望の原因としての対象[objet comme cause du désir]を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない[ le fétiche n'est pas désiré]。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。〔・・・〕


ラカンが不安セミネールで詳述したのは、欲望の条件[condition du désir]としての対象(フェティッシュ)である。…倒錯としてのフェティシズム[le fétichisme comme perversion]の叙述は、倒錯に限られるものではなく、欲望自体の地位[statut du désir comme tel」を表している。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)



2011年には、「原因」ーー欲望の原因ーーという語を次のように定義するようになる。



われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)

承認から原因への移動において、分析実践の適用点を、ラカンはまた欲望から享楽へ移行した。ラカンの最初の教えは、存在欠如と欲望を基礎としていた。〔・・・〕しかし解釈の別の形態がある。それは、「欲望」ではなく「欲望の原因」にかかわる。この解釈は欲望を防衛として扱う。〔・・・〕この「欲望の原因」は、存在欠如としての欲望とは反対に、フロイトが欲動を通して接近したものであり、この欲動がラカンの享楽の名である。


Eh bien en passant de la reconnaissance à la cause, Lacan déplace aussi le point d'application de  la pratique analytique du désir à la jouissance.  Le premier enseignement repose sur le manque à être et sur le désir […] Mais il y a un autre régime de l'interprétation qui porte non sur le désir mais sur la cause du désir et ça, c'est une interprétation qui traite le désir comme une défense,[…]au contraire du désir qui est manque à être, ce qui existe, c'est ce que Freud a abordé par les pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.  J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



そして現在、仏臨床ラカン派の主流において「固着のあるところに現実界あり」とさえ言ってよい形で、リアルのポジションが解釈されるようになっている。



精神分析における主要な現実界の顕現は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance](コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)

現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な唯一のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「唯一のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。

私は考えている、この「1と享楽[Un et de la jouissance]の結びつき」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



固着とはフロイトの定義では、身体から湧き起こる欲動の原象徴化の試みでありながら、その身体的なものの一部がエスのなかに置き残され、異者としての身体Fremdkörper として不気味な反復強迫を引き起こすという機制であり、この反復強迫の別名が死の欲動である。ラカン的には固着は原穴埋めとその残滓である。ラカンは穴も穴埋めも残滓もすべて(a)と呼んでいる。