古代からのフェティシズムがテーマらしい歴史家WILLIAM PIETZの小論をなにげなく眺めていたら、ほとんど完璧なことがーーボクの観点ではーー書かれている箇所があるな。
最初期のフェティッシュの言説は、魔術と女性のセクシャリティのコントロールに関わる。The earliest fetish discourse concerned witchcraft and the control of female sexuality. 〔・・・〕 |
フェティッシュ的固着の起源は、欲望を構造化するための単独的な個人的出来事の力にあった。トラウマ的固着、反復強迫の源泉としての固有の強度をもった出来事への固着の考え方は、もちろん性的フェティッシュの精神分析的概念の根源である。 the origin of the fetishistic fixation was in the power of a singular personal event to structure desire. The idea of traumatic fixation upon a specific intense experience as the source of a repetition compulsion is, of course, fundamental to the psychoanalytic notion of the sexual fetish. (WILLIAM PIETZ, The problem of the fetish, 1985年、PDF) |
ーー《トラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である。〔・・・〕これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen, […] Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
しかもつい最近引用したレリスのジャコメッティ論まで引用して論を展開している。
ジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、…女の溝 creux fémininで刻まれたこの木製の玉は、クロワッサンの上にヴァイオリオンの細い弦で宙吊りになっている。三日月型の縁は空洞 cavité に触れかかっている。見る者は、本能的に強制されて隆起物の上の玉を滑らせる。しかし弦の長さは二物の間の接触を部分的にしか許さない。(サルバドール・ダリ Salvador Dalí, « Objets surréalistes », Le Surréalisme au service de la révolution, 1931) |
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この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年) |
女はファルスになるために、つまり大他者の欲望のシニフィアンになるために、女性性の本質的部分、そのすべての属性を拒絶して、仮装のなかに移行する。それは、女が愛されると同時に欲望されることを期待することではない。そうではなく、女は彼女自身の欲望のシニフィアンを、愛の要求の宛先である人物の身体のなかに見出だすのである。もちろん忘れてはならない、徴示的機能を賦与された器官はフェティッシュの価値を獲得することを。 C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée.Mais son désir à elle, elle en trouve le signifiant dans le corps de celui à qui s'adresse sa demande d'amour. Sans doute ne faut-il pas oublier que de cette fonction signifiante, l'organe qui en est revêtu , prend valeur de fétiche.” (Lacan, E694, 1958) |
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「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。〔・・・〕我々は見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。〔・・・そして〕我々は、無と本質的な関係性をもつ主体を女たちと呼ぶ。 La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose.〔・・・〕Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien. […] nous appelons femmes ces sujets qui ont une relation essentielle avec le rien (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997) |
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フェティシズム[le fétichisme]は、最古代には、われわれ人間存在の基盤[la base de notre existence humaine]であった。だがもはや偽装されていない形態[forme non déguisée.]でフェティシズムに満たされる機会はめったに見出せない。…われわれは変質されたフェティシズム[fétichisme transposé]にしがみついているだけなのだ。それは、われわれを深く動かすフェティシズムの貧しい見せかけ[faux semblant]に過ぎない。そしてこの粗悪なフェティシズム[mauvais fétichisme ]がわれわれの活動に浸透している。真のフェティシズム[fétichisme véritable]ににとっての場処はほとんど残されていないのだ。 芸術作品の領野で、その多寡はあれ真のフェティシズムの要求に応えてくれるオブジェ(絵画あるいは彫刻)はほとんど見出せない。真のフェティシズム、つまり愛ーー真に夢中にさせてくれるもの[réellement amoureux]ーーだ、われわれ自身を内部から外部へと投射し[projeté du dedans au dehors ]、硬い殻で覆いうもの、…空間と呼ばれる広大な異郷の部屋[la vaste chambre étrangère qui s'appelle l'espace.]のなかで、われわれが使いうるひとつの家具のように。〔・・・〕 |
水滴、愛らしく小さな透明の球体、それがわれわれに最小限の形式を呼び起こす。もし涙が零れ落ちなくても、この湿り、この流体は、四肢のなかに流れる甘美さに相通じる。そう、それは愛するときだ、あるいは愛撫されるのを感じるだけでのときでさえ。 |
現在、たちの悪い退屈を免れる作品を創造する芸術家はほとんどいない。過去にはさらに少なかった。しかしこの掟から逃れる特権をもった稀有の同時代人のなかから、われわれはジャコメッティを持ち出すことができる。 |
危機と呼ばれる瞬間がある、唯一、人生において重要な瞬間である。外部が、突然応答するように見えるのだ、前方から内部へと投げ返される何ものかへの応答。外部の世界は、われわれの心との遭遇に開かれ、突然その心とのコミュニケーションが設立される。 |
私は、自らの人生に置いてこの審級に属するいくつかの記憶をもっている。そしてすべては些細な外観のなかにある出来事に関係する。象徴的価値を剥ぎ取られた出来事だ。…ポエジーはそのような危機からのみ自らを表出す[La poésie ne peut se dégager que de telles crises] 。そしてその等価物を備える作品のみが重要である。 |
私はジャコメッティの彫刻を愛している [J'aime la sculpture de Giacometti]…これらはわれわれが偶像化しうる真のフェティッシュ[vrais fétiches]である(真のフェティッシュ 、つまりわれわれに似た、われわれの欲望の具象化された形態[la forme objectivée de notre désir]だ)。優美かつフモールを帯びた生のそれのように驚くほど生き生きとしており、感情に訴える両義性の美しい表現、人が常に養う繊細なスフィンクスであり、われわれ自身の核の内密さを備えている。 私に期待しないでほしい、これらの作品を疑問の余地なく彫刻と呼ぶことを。私は「さまよい DIVAGUERU」と呼ぶことを好む。なぜなら、これらの美しいオブジェクトを私は見つめて触ることができるから。そして私のなかにある多くの記憶の発酵[fermentation]を活性化するのだ。 |
これらの彫刻のいくつかは、へらのように、あるいは虚ろな果実のように、凹んでいる、他のものは開かれた作品で大気が通う、あたかも扉を内部と外部のあいだで動かし通すように。風が蠢くのを覆っている、図り知れない黒いつむじ風のなかにわれわれを包む隠された風を。これら途方もない刻限がわれわれを狂気にさせる[ces minutes inouïes qui nous font délirer]。(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |