フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった。le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |
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すべての言葉の意味は、ウィトゲンシュタインが言ったようにその使用法にかかわる。このところフェティシズムについて記しているが、一部の思想家や詩人は、この語によって通念としてのフェティシズムとは異なった使い方をしているのである。
すべての歴史的対象はフェティッシュ的である[tout objet historique est fétiche]。(メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』1964年) |
たとえば死んだひとの衣服などの遺品は、フェティッシュ(そこには、死んだ人が魔法のように生き続ける)としても機能するし、あるいはまた症状(死者を想い起こさせる心を掻き乱す細部)としても機能する。A leftover of the dead person for example, such as an item of their clothing, can function both as a fetish (in it, the person magically continues to live) and as a symptom (the disturbing detail that brings to mind his or her death). (ジジェク『ポストモダンの共産主義』2009 年) |
ーーたとえばこの使用法に則れば、日本におけるお盆や忌日における先祖供養は、いまでもフェティッシュ的風習として機能していると言ってよいのではないだろうか。 次にやや異なった相から見てみよう。 |
人はみな多かれ少なかれ愛においてフェティシスト的である。ほとんどの標準的愛においてフェティシズムの絶え間ない服用がある。Tout le monde est plus ou moins fétichiste en amour ; il y a une dose constante de fétichisme dans l'amour le plus régulier(アルフレッド・ビネー Alfred Binet『愛のなかのフェティシズム Le fétichisme dans l'amour,』1887年) |
ビネーは精神医学に最初にフェティシズム概念を導入したシャルコーの高弟子だが、上の文を次のラカンとともに読んでみよう。 |
倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (Lacan, S16、26 Mars 1969) |
愛は穴を穴埋めする。あなた方は知っているように、そう、ちょっとしたコットンだ。l'amour bouche le trou. Comme vous le voyez, c'est un peu coton. (Lacan, S21, 18 Décembre 1973) |
享楽は、穴埋めされるべき穴として示される。la jouissance ne s'indiquant […]comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
ーー愛は享楽の穴を穴埋めする倒錯だとなる。ここでの享楽の穴とは何よりもまず原去勢の穴としてとらえておこう。 |
疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある[Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration]。(コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010) |
享楽の排除の穴=トラウマ、…それは皮肉にも、ラメラ神話、つまり高等動物の性的再生産によって現実的に喪われた生の部分の神話を生み出した。…つまりリアルな穴の神話である。Le troumatisme de la forclusion de la jouissance [...] En produisant ironiquement le mythe de la lamelle [...] mythe d'une part de vie perdue réellement du fait de la reproduction sexuée des espèces supérieures [...] Un mythe du trou réel (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
これらを受け入れるなら、女性がフェティシストでないというのは全き誤謬である。 以下は原去勢ではなく現実界的去勢に関わる。誤解のないように先にこう引用しておこう。
さてピエール=ジル・ゲガーンによる一般化フェティシズム論からである。 |
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排除の普遍性があるなら、ーー女というものとして(大他者の彼岸に)存在する排除の普遍性があるならーー、フェティッシュの普遍性もまたある。すなわち「父の版の倒錯 la perver-sion」である。〔・・・〕したがって女性のポジションは、一般化フェティシズムから逃れられないのが了解される。'il y a un universel de la forclusion qui ex-siste [siste au-delà de l'Autre] à l'instar de La Femme, il y a aussi un universel du fétiche, c'est-à-dire de la perver-sion, qu'on l'écrive en deux mots (père-version) ou en un seul. [...] La position féminine n'échappe pas au fétichisme généralisé ainsi entendu.(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ , 2010) |
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ゲガーンの言っていることを確認しておこう。 |
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父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい 。〔・・・〕私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。« perversion » ne veut dire que « version vers le père », et qu'en somme le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez. …je l'écrive la « père-version ».(Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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ーーまずラカンはこう言ったのである。そして現代ラカニアンによって次のような注釈がなされている。 |
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限定された父の名のシニフィアンの排除の彼岸には、女性のシニフィアンは存在しないという一般化された排除がある。Au-delà de la forclusion restreinte du signifiant du NDP, la forclusion se généralise à celle du signifiant LȺ femme n’existe pas. (Gustavo Stiglitz, Devant le fou, devant le délirant, n’oublie, 2018) |
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女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme, (Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012) |
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人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée.(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf, 2018) |
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以上、人はみなフェティシストである。
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ーーもちろん、《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
すべての欲動は実質的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort. Lacan, E 848, 1964,) |
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年) |
最も簡潔に言えば、欲動とは去勢によって喪われた身体を取り戻そうとする運動である。この理由で、愛の欲動[Liebestriebe]ーー別名、原ナルシシズム的リビドー[primären narzisstischen Libido]ーーは死の欲動[Todestriebe]なのである。 |
去勢は、全身体から一部分の分離である。Kastration […] um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt (フロイト『夢解釈』1900年、1919年註) |
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、ー自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
ーー《愛することと滅びることとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年)
我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃) |
Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci) |