このブログを検索

2020年12月14日月曜日

人はみな穴埋めする

◼️主体は穴である

ラカン的な斜線を引かれた主体は去勢(去勢された主体)のことである。もっとも去勢は前回示したように、象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢、原去勢がある。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)






①象徴的去勢とは成人言語の世界に入場することにより身体的なものが喪われることである。日常的にも、たとえば(代表的には)人は一人称単数代名詞「私」を使うたびに去勢されていると言ってよい。さらに言えば、私がこうやって記事を書いていること自体、象徴的去勢の実践である。ーー《去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique》 (Lacan, S17, 18 Mars 1970)



これを前期ラカンはモノの殺害やら言語による拷問やらと言った。


シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン, S3, 16 mai 1956)



②想像的去勢は種々あるがここでは禁止による去勢ーー「そんなことをするとオチンチンをちょんぎっちゃうぞ」ーーのみを示しておこう(他にも「あると想定された場」にそれがないこと等も重要でないことはないが)。この想像的去勢は日常的にはよく使われるが、臨床的には重要度は低い。


③現実界的去勢とは、固着としての原抑圧にかかわり、これは身体的なものの一部が心的なものに翻訳されずエスのなかに置き残されることであり、臨床的にはこれが核心である。固着自体、ララングというシニフィアンにも関わるが、象徴的去勢とは異なり、ララングは言葉のモノ性であり、これをリアルなシニフィアンと呼ぶ。



ラカンは言語の二重の価値を語っている。実体のない意味媒体と言葉のモノ性の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps,  2016)

ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外[hors chaîne] のものであり、したがって意味外[hors-sens]にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。そしてララングは謎のようにして享楽と混淆している。Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne), mais de uns qui, en outre, sont en coalescence énigmatique avec de la jouissance. (コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)


ーーこのあたりの思考をラカンは1973年前後の晩年になってからようやく明瞭に提示しており、一般的にはラカンの去勢は象徴的去勢が主要なものとして語られてきた。


たとえばラカンはセミネールⅩⅩでこう言っている。

シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)


これは「シニフィアンは去勢の原因である」と読むべきである。

享楽は去勢である[la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である[la castration est le nom de la jouissance] 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)


しかもこのシニフィアンは通常の象徴的言語だけでなく、現実界的ララングも含めて読まないと核心を外してしまう。


したがって、中期までのラカンは、ミレール が繰り返し強調しているように遡及的に読むしかない(おそらく例外は身体の論理が際立つ不安セミネールⅩと精神病のセミネールⅢであろう、後者には後年の「言葉のモノ性」に相当する純粋シニフィアン[signifiant pur]が語られている)。エクリ程度だけを読んでいると、「言語の扱いについては」すぐれた読み手ならーーたちまち凡庸だという印象を与えるのだろうーー、次のような感想を生むことになる。


ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」1996年『アリアドネからの糸』所収)


フロイトを基準にするなら、けっして《無意識は言語のように構造化されているL'inconscient est structuré comme un langage 》などとは言っていないのである。力動的無意識あるいは前意識は言語のように構造化されている。だが原抑圧の無意識(本来の無意識)は言語外の身体の無意識である(この原無意識は、後期フロイトの核心、原抑圧=固着を通した自動反復[Automatismus]=無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]である)。




ーーなお、この私の記事における「主体」は、上図の右項にある本来の無意識の審級にある「話す存在」も含めて「主体」という言葉を使っているので注意されたし。



いわば自閉症は主体の故郷の地位にある。そして「主体」という語は括弧で囲まれなければならない、疑いもなく「話す存在 parlêtre」という語の場に道を譲るために。 l'autisme était le statut natif du sujet, si je puis dire. Et le mot de « sujet », ici, doit porter des guillemets, et céder sans doute la place au terme de parlêtre (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)

話す存在 parlêtre の分析は、 言語のように構造化されて無意識[ l'inconscient structuré comme un langage]とは異なる。〔・・・〕話す存在のサントーム [le sinthome d'un parlêtre ]は、身体の出来事 un événement de corps(=フロイトの固着)である。(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。…サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽に帰着する。


le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu.[…] Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)


そしてサントームが本来の享楽としての自閉症的享楽である。

享楽は自閉症的である。主体の根源的パートナーは孤独である。La jouissance est autistique,… Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude. (Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR ,2016)



ちなみにラカンのララングは、フロイトが機知(ジョーク)論文で示したモノ表象にほぼ相当する。フロイトの語表象(言語)、事物表象(イマーゴ)も含め、ボロメオの環を使ってポジションを示せば次のように置ける。




ここで少し寄り道する。


ラカンセミネールⅩⅠにおいて「二つの欠如」を語っているが、これは二つの去勢として読むことができる。


ラカンはそこで、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言い、一方の欠如は、《主体の誕生 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如である。そして、《この欠如は別の欠如を覆うようになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。


この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》と言っている。この後者のリアルな欠如がラメラ神話における去勢である(ラメラは羊膜のようなものである)。


ラメラとlamelleしてのリビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964、摘要)

例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

リビドーはラメラである。このラメラは器官であり、話す主体はこの器官の致死的意味を啓示する特権を持っている。…この理由で、すべての欲動は死の欲動なのである。La libido est cette lamelle […] Cette lamelle est organe, […] Le sujet parlant a ce privilège de révéler le sens mortifère de cet organe, […] C'est ce par quoi toute pulsion est virtuellement pulsion de mort. Lacan, E 848, 1964, 摘要訳)


要するにこのセミネールⅩⅠでは、象徴的去勢と原去勢のみが語られているが、現実界的去勢としての原抑圧=固着は語られていない。


次のフロイト文が現実界的去勢である。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)


ーーこれは固着という現実界的シニフィアンとその残滓としての異者と読まなければならない。


フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


不気味なものとはフロイトの定義において、快原理の彼岸にある内的反復強迫[inneren Wiederholungszwang ]をもたらすものである。


異者とは「異物=異者としての身体[Fremdkörper] 」であり、繰り返せば現在の主流ラカン派においてはこのフロイト概念の固着と異物が核心となっている。


分析経験の基盤は、まさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

 fondée dans l'expérience analytique, […] précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ラカン自身から掲げれば、たとえば次の欲動の現実界が本来の享楽であり、現実界的去勢の穴を言っている。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧(固着)と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。〔・・・〕ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



④最後に原去勢とは出産外傷である。フロイトは原抑圧という語をを主に現実界的去勢のレベルで使ったが、出産外傷も原抑圧=原トラウマと呼んでいる。


出産外傷 Das Trauma der Geburt、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなう。…これが「原トラウマ Urtrauma」である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


この出産外傷がラカンのラメラ神話にダイレクトにかかわる。


享楽の排除の穴=トラウマ、…それは皮肉にも、ラメラ神話、つまり高等動物の性的再生産によって現実的に喪われた生の部分の神話を生み出した。…つまりリアルな穴の神話である。Le troumatisme de la forclusion de la jouissance [...] En produisant ironiquement le mythe de la lamelle [...] mythe d'une part de vie perdue réellement du fait de la reproduction sexuée des espèces supérieures [...] Un mythe du trou réel  (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


ラカンやラカン派が去勢やら主体やらと言うとき、どのレベルで言っているかを判断するのは難しい。ここに種々の混乱や誤読が生じているように見える。そして去勢の別名は穴である。基本的にはそれぞれのレベル、特に象徴的去勢、現実界的去勢、原去勢の穴が重層構造になっていると捉えるべきである。


たとえばラカンが次のように言うときは、象徴的去勢、想像的去勢、原去勢の穴ではなく、欲動という語から現実界的去勢の穴だと判断できる(ただしその底には原去勢の穴がある)。


主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴に過ぎない[Le sujet …rond brûlé dans la brousse des pulsions](Lacan, E666, 1960)


ジャック=アラン・ミレールはこの文に依拠して、そして欲動の藪を享楽の藪[ la brousse de la jouissance] に言い換えつつ次のように言っている。


私は斜線を引かれた享楽を主体と等価とする。[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)


この斜線を引かれた享楽:(- J)が去勢のことである。


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


ミレールは2008年のセミネールで主体=斜線を引かれた享楽と言った後、翌年こう言っている。


私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す。$ ≡ (-φ)  [j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (-φ) ] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)


ここで去勢が穴と等価なのを確認しておこう。


去勢[-φ]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。[Ce petit a sur moins phi , c'est la façon la plus élémentaire de comprendre cette conjugaison que j'évoquais, la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (]J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)




◼️人はみな穴埋めする


ところで穴があるなら何らの仕方で穴埋めをしなければならない。なぜならリビドー、つまり欲動=享楽は死と繋がっているから。穴の引力に引きつけられたら死に向かうしかないから。


リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, […] ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

究極的には死とリビドーは繋がっている。これがラメラ神話の真の意味である。すなわち、リビドーは死に至る存在である。 finalement la mort et la libido ont partie liée. C'est le vrai sens de son mythe de la lamelle, c'est dire la libido est un être mortifère. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)


ラカンは穴埋めの一つの仕方を妄想だと言っている。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。[Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant ](Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)

まさにラカンは最後の教えで、「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」と定式化した。これは臨床の彼岸にあるものを指し示している。すなわち「人はみなトラウマ化されている」である。〔・・・〕そしてこの意味は「すべての人にとって穴がある」である。


C'est la valeur que je donne au Tout le monde est fou qu'a formul é Lacan dans son tout dernier enseignement. Ça pointe vers un au-delà de la clinique, ça dit que tout le monde est traumatisé,… Et ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  (J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


妄想とは穴からの回復の試みである。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)




ラカンは穴埋めをときに倒錯とも言った。


倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する[ le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre,](ラカン、S16、26 Mars 1969)


ーーラカンの大他者は身体という意味もあるので注意されたし。


大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


固着による身体の穴を穴埋めするには妄想と倒錯があるのである。


ここまで見てきたように穴=去勢=主体(斜線を引かれた主体)である。そしてこの主体$はフロイトの自我分裂[Ichspaltung]に起源がある。


ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている。Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


フロイトの死の枕元にあったとされる遺稿には自我分裂についてこうある。


フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt,(フロイト『精神分析概説』1939年)


要するに自我分裂の穴を穴埋めするにはフェティシズムがある、と言っているのである。


矛盾に対する二つの相反する反応が自我分裂の核[Kern einer Ichspaltung]として居残っている。われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能[synthetische Funktion des Ichs] は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. Der ganze Vorgang erscheint uns so sonderbar, weil wir die Synthese der Ichvorgänge für etwas Selbstverständliches halten. Aber wir haben offenbar darin unrecht. Die so außerordentlich wichtige synthetische Funktion des Ichs hat ihre besonderen Bedingungen und unterliegt einer ganzen Reihe von Störungen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


これは1927年のフェティシズム論文にも、そして性理論三篇の1920年注にも示唆されている。


(ある種の患者において)現実の重要な部分が自我によって否認される。それはフェティシストにおいて女性の去勢の不愉快な事実が否認されるのと同様である。私はまた、幼児の生において同様の出来事はまったく稀ではないと考えている。Da war also ein gewiß bedeutsames Stück der Realität vom Ich verleugnet worden, ähnlich wie beim Fetischisten die unliebsame Tatsache der Kastration des Weibes. Ich begann auch zu ahnen, daß analoge Vorkommnisse im Kinderleben keineswegs selten sind, (フロイト『フェティシズム』1927年)

「初期の」性的刻印に関して…精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。


alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. 


真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。


Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注)


こうしてフロイト観点からも、現代ラカン派の「一般化フェティシズム FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ」という主張が正当化される。すなわち人はみなフェティシストである


古典的にはフェティッシュφは次のポジションの穴埋めとされてきた。




だが上に引用したフロイトの記述を見るとフェティッシュは固着自体である。それ以外にも固着用語を使ってフェティシズムを語っていることが多い。ジャック=アラン・ミレールも固着としてのサントームとフェティッシュの近似性を言うようになった(参照)。


…………



なお、上の表で愛と欲望を同じポジションに置いたのは実際には厳密ではない。愛は隠喩で欲望は換喩なのだから、欲望は欲望の原因の上ではなく横に置くべきかもしれない。


享楽は、穴埋めされるべき穴として示される。la jouissance ne s'indiquant […]comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

愛は隠喩である。われわれが隠喩を「代理」として識別する限りで。l’amour est une métaphore, si tant est que nous avons appris à l’articuler comme une substitution  (Lacan, S8, 30  Novembre 1960)

欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩である。 le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque. (Colette Soler « Estado de minas », 10/09/2013)


だが図表においては簡易的に、享楽の対象ーー原対象aーーの昇華=穴埋めの意味で、愛と欲望をあのように図示した(定義上、欲望は享楽に対する防衛である)。


ラカンの昇華の諸対象[objets de la sublimation]。それらは付け加えたれた対象[objets qui s'ajoutent]であり、厳密にラカンによって導入された剰余享楽 [plus-de-jouir ]の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 [objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps ]を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象を反映する諸対象[objets qui répercutent les premiers objets ]を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象[objets nouveaux ]は、原対象a[objets a primordiaux]の再構成された形式[formes reprises]に過ぎないかどうかである。(J.-A. Miller ,L'Autre sans Autre, 2013)

対象aは、喪失・享楽控除の効果とその喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片の効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。〔・・・〕しかしながら、この穴を開けられた現実界にはまた、享楽の固着という穴埋めがある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. […] Dans ce réel troué, cependant il y a aussi le bouchon d'une fixion de jouissance  (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)




もっとも、次のラカンを受け入れるなら、論理的には愛は一番上に来るのである。


愛は欲望の昇華である[l'amour est la sublimation du désir]…


ラ・ロシュフーコーはこう言っている、《いちども愛の話を聞かなかったなら、愛などけっしてしなかったろうと思われる人間がたくさんいる[Combien de gens n'auraient jamais aimé s'ils n'en avaient entendu parler]》。


つまりは、《文化がなかったら愛の問題はないだろう。Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture》である。 (Lacan, S10, 13 Mars 1963)


フロイトの言い方なら、純愛は粗野な欲動=享楽の「究極のお上品化」の審級にある・・・


われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること [Libidoverschiebungen]、これによって、われわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標[Triebziele]をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華 [Sublimierung der Triebe] が役立つ。


一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自らの想像力の具現化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[coarse, primary instinctual impulses]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)




もちろん本来の愛にお上品化はほとんどありえないので、リビドー(粗野な欲動)を隠蔽している・・・

少女たち、情愛への過剰な欲求と同時に性的生[Sexuallebens]の現実的要求への過剰な恐怖をもつ少女にとって、非性的愛の理想[Ideal der asexuellen Liebe]は、抵抗しがた誘いである一方で、情愛の背後にリビドーを隠蔽している[Libido hinter einer Zärtlichkeit[…] zu verbergen]。(フロイト『性理論三篇』第3章、1905年)



とはいえ粗野な欲動って具体的にはなんだろ?



破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。

Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


いけね、また連鎖引用の悪癖がはじまっちまった・・・


完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……


das vollkommne Weib zerreißt, wenn es liebt... Ich kenne diese liebenswürdigen Mänaden... Ach, was für ein gefährliches, schleichendes, unterirdisches kleines Raubtier! Und so angenehm dabei!... (ニーチェ『この人を見よ』1888年)das vollkommne

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首の裂開的穴は、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


いやあ…せっかく前半は格調高く書いたのに・・・《メドゥーサの首は女性器を代表象する。das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, .》 (フロイト『メデューサの首 Das Medusenhaupt』(1940 [1922])  


というわけで、究極の穴の穴埋めなんてのは実際のところは不可能なのである・・・

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの 』1919年)



これが次の文の真意であろう・・・

対象aには二つの異なった地位がある。もしそう言えるなら、あなたがたは良い対象aを持っている。欲望の原因としての対象aである。だがこの用語では充分でない。l'objet petit a …, c'est deux statuts différents. Vous avez le bon objet petit a - si je puis dire - qui est la cause du désir, …le terme est inadéquat…


穴埋めの対象a、この対象aは、人が自らを防衛できないものがある。密封しえない「ひとつの穴の穴埋め」である。ダナイデスの樽モデルの穴の穴埋めである。…それはヒト属における傷痕である。われわれはこの傷痕を去勢と呼ぶ。L'objet petit a bouchon, l'objet petit a, c'est l'objet petit a dont on ne peut pas se défendre qu'il est « bouche un trou » qui est infermable, qui bouche un trou du modèle tonneau des Danaïdes, …qu'il y a une malfaçon dans l'espèce humaine. On appelle ça la castration (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 14/11/2007)


 





どうしてきたんだろ、あのコントロールを?

最初期のフェティッシュの言説は、魔術と女性のセクシャリティのコントロールに関わる。The earliest fetish discourse concerned witchcraft and the control of female sexuality. 〔・・・〕

フェティッシュ的固着の起源は、欲望を構造化するための単独的な個人的出来事の力にあった。トラウマ的固着、反復強迫の源泉としての固有の強度をもった出来事への固着の考え方は、もちろん性的フェティッシュの精神分析的概念の根源である。

the origin of the fetishistic fixation was in the power of a singular personal event to structure desire. The idea of traumatic fixation upon a specific intense experience as the source of a repetition compulsion is, of course, fundamental to the psychoanalytic notion of the sexual fetish. (WILLIAM PIETZ, The problem of the fetish, 1985年、PDF



むかしから次のようなフェティッシュ使ったのかな