超自我の機能はとても日常的に見られるものである。
もし人が自らの内にある自己破壊性と他者破壊性を認めるなら、それがダイレクトに超自我にかかわるのである。
以下に示すのは今まで何度も引用してきた文章群だが、ここでは中井久夫から始めよう。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収) |
この自己破壊性がマゾヒズムである。そしてーー後に示すがーーラカンの本来の享楽とはマゾヒズムのことである。 まずフロイトにおけるマゾヒズムを示そう。1919年までのフロイトはサディズムがマゾヒズムに先行すると考えていた。だが1920年以降、徐々に捉え方を変え、1933年、77歳のとき結論的に次のように言った。 |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。 Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
原欲動としてのマゾヒズムがまずある。だがこれに従えば自己破壊、究極的には死に向かってしまう。したがってこの自己破壊を飼い馴らすために他者へと投射し、他者破壊に向かう。ある意味で「自らの健康のための」他者破壊である。
何よりもまず人はこれを認めるか否かである。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
ーーここに固着という用語があるが、欲動(リビドー)つまり享楽のメカニズムを認知するためにはこの語が一つの核心である➡︎ 簡潔版:S(Ⱥ)=超自我=原抑圧=固着 以下、ラカンから超自我と、マゾヒズムと享楽にかかわる発言のエキス文を列挙するが、基本的には上に示した内容の言い換えである。 |
超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,(Lacan, S10, l6 janvier 1963) |
超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である,「享楽せよ!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! », (ラカン, S20, 21 Novembre 1972) |
唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 、享楽という原マゾヒズム [masochisme primordial de la jouissance]である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。 cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance,[…] Toute la parole philosophique foire et se dérobe. (Lacan, S13, June 8, 1966) |
享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969) |
死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969) |
享楽は現実界にある。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […], Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (ラカン、S23, 10 Février 1976) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である。La pulsion de mort c'est le Réel […] la mort, dont c'est le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
ジャック=アラン・ミレールの簡潔明瞭な文も掲げておこう。
マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989) |
享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) |
死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
もっともマゾヒズムには健康ヴァージョンもあるので注意されたし。
ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。 Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même.. (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |
健康ヴァージョンの代表的なものは被愛妄想的享楽[la jouissance érotomaniaque]である。➡︎ 「パロール享楽という被愛妄想的享楽」。 |
女性のマゾヒズムの秘密は、被愛妄想である。Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie(J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018) |
ごく小さな特殊なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性の愛の対象選択に役割をはたします。でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です。女性たちは愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。 Des particularités menues, qui rappellent le père, la mère, le frère, la sœur, tel personnage de l'enfance, jouent aussi leur rôle dans le choix amoureux des femmes. Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010) |
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マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的 である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン, S10, 16 janvier 1963) |
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自己破壊欲動の比較的よく見られる事例はたとえば次のものである。 |
抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
中井久夫の使う解離という語は、排除を意味する。 |
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
そして排除は外立である。 |
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011) |
享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974) |
排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne, 3 JUIN 1987) |
以上、中井久夫のいう「自己破壊衝動の囁き」とは、超自我の声のことである。 |
超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme des impératifs interrompus du Surmoi […] apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963) |
ーーここでの「声としての対象a」とは穴としての対象aでありーーラカンの穴とはフロイトの引力の言い換えである[参照]ーー、享楽自体である。
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968) |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986) |
以上、文献群を列挙しただけなのでわかりにくい箇所もあるだろうが、「欲動のリアル=享楽の現実界」の基本はここにしかない。