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2020年12月22日火曜日

ドストエフスキーとニーチェの破壊の悦

以下、前回の「インターネットの書き込みと超自我の囁き」のドストエフスキー とニーチェ版である。


夜の大火は人をいらだたすと同時に、心を浮き立たせるような効果を常に生むものである。花火はこの効果を応用したものだ。しかし花火の場合は、火が優美な、規則正しい形にひろがり、しかも自分の身はまったく安全なので、ちょうどシャンパン・グラスを傾けたあとのように、遊び半分の軽やかな印象しか残さない。ほんものの火事となると、話は別である。この場合は、夜の火の心浮き立たせる効果もさることながら、恐怖心と、やはりわが身に迫るなにがしかの危機感とが、見物人との間に(もちろん、家を焼かれている当人たちの間にではない)ある種の脳震盪めいた作用を惹き起こし、彼らの内なる破壊本能を刺激するような結果になる。しかも、この破壊本能は、悲しいかな! どんな人間の心の底にも、謹厳実直そのもののような家族持ちの九等官の心の底にさえひそんでいるものなのだ……この隠微な感覚は、ほとんどの場合、人を陶酔させる傾きがある。「火事というものを多少の満足感なしに眺められるものかどうか、ぼくはあやしいと思うね」とは、かつてステパン氏が、たまたま出くわした夜の火災からの帰り道、まだその引用がなまなましかったおりに、私に語った言葉そのままの引用である。(ドストエフスキー『悪霊』江川卓訳 新潮文庫 下 P272)


「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ」彼は絶望にかきくれて叫んだ。「きみには十分にその権利がある! きみを愛していないくせに、きみを破滅させたことを、ぼくは知っているんだ。そうだよ、『ぼくは瞬間を自分の手に残しておいた』んだ。ぼくは希望をもっていた……ずっと以前から……最後の希望をもっていた……きみがきのう自分から、一人で、進んでぼくの部屋にはいってきたとき、ぼくは、自分の心を照らし出した光明にさからうことができなかった。ぼくはふいに信じてしまった……ことによると、いまでも信じているのかもしれない」

「そんなふうに潔く打明けてくださるのなら、わたしもお返しをしなければならないわね、ーーわたしはあなたの看護婦になるのはごめんです。もしかして、きょううまい具合に死ねなかったら、ほんとうに看護婦になるかもしれないけど、たとえそうなっても、あなたの看護婦にはなりません。あなたにしたって、むろん、そこらの手なしや足なしと同じようなものですけどね。わたしはいつもこんな気がしていたんです、きっとあなたはわたしを、人間の背丈ほどもある巨大な毒蜘蛛のすんでいるようなところへ連れていくのにちがいない、そこでわたしたちは、生涯、その蜘蛛を眺めながら、びくびくして暮らすことになるんだろうって。そんななかでわたしたちの愛情も消えてしまうんです。ダーシェンカにお話しなさいな、あの人なら、どこへでもあなたについていってくれるでしょうよ」 「こんなときにも、きみはあれのことを思い出さずにいられないの?」 「かわいそうな小犬さん! あの人によろしく。あなたがもうスイスであの人を老後のお守役に決めてしまったのを、あの人は知っているのかしら? ずいぶん用意周到な方ね! 先の先まで見通していらっしゃる! ……」(ドストエフスキー 『悪霊』下 P288-289)





◼️破壊の悦と力への意志(生への意志)


欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

生への意志? 私はそこに常に力への意志を見出だす。Wille zum Leben? Ich fand an seiner Stelle immer nur Wille zur Macht. (ニーチェ「力への意志」遺稿、ー1882 - Frühjahr 1887 )


生のもっとも異様な、そして苛酷な諸問題の中にあってさえなおその生に対して「然りJasagen」ということ、生において実現しうべき最高のありかたを犠牲に供しながら、それでもおのれの無尽蔵性を喜びとする、生への意志[der Wille zum Leben]ーーこれをわたしはディオニュソス的と呼んだのであり、これをわたしは、悲劇的詩人の心理を理解するための橋と解したのである。詩人が悲劇を書くのは恐怖や同情から解放されんためではない、危険な興奮から激烈な爆発によっておのれを浄化するためーーそうアリストテレスは誤解したがーーではない。そうではなくて、恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の悦そのものになるためだ[die ewige Lust des Werdens selbst Zusein]、破壊の悦[die Lust am Vernichten]をも抱含しているあの悦に……

Das Jasagen zum Leben selbst noch in seinen fremdesten und härtesten Problemen; der Wille zum Leben im Opfer seiner höchsten Typen der eignen Unerschöpflichkeit frohwerdend – das nannte ich dionysisch, das verstand ich als Brücke zur Psychologie des tragischen Dichters. Nicht um von Schrecken und Mitleiden loszukommen, nicht um sich von einem gefährlichen Affekt durch eine vehemente Entladung zu reinigen so missverstand es Aristoteles: sondern um, über Schrecken und Mitleiden hinaus, die ewige Lust des Werdens selbst Zusein, jene Lust, die auch noch die Lust am Vernichten in sich schliesst.. .(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第5節『偶像の黄昏』1888年)


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)



ーー「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」のフロイトラカン版は次の通り。


荒々しい、自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

欲動蠢動 Triebregung、この蠢動は、刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである « Triebregung  »[…] la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute.(Lacan, S10, 14  Novembre  1962)




◼️マゾヒズムと力への意志


苦痛と快(悦)は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

苦痛のなかの快(悦)[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)

我々は、フロイトが悦lustと呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)




◼️力への意志という諸科学の女王

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕


心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)


ドストエフスキーこそ、私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。すなわち、彼は、スタンダールを発見したときにすらはるかにまさって、私の生涯の最も美しい幸運に属する。浅薄なドイツ人を軽蔑する権利を十倍ももっていたこの深い人間は、彼が長いことその仲間として暮らしたシベリアの囚人たち、もはや社会へ復帰する道のない真の重罪犯罪者たちを、彼自身が予期していたのとはきわめて異なった感じをとったーーほぼ、ロシアの土地に総じて生える最もすぐれた、最も堅い、最も価値ある木材から刻まれたもののごとく感じとった。(ニーチェ「ある反時代的人間の遊撃」第45節『偶然の黄昏』1888年)


心ひそかに自分を責めさいなみ、われとわが身を噛み裂き、引き挘るのだ。そうするとしまいにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!(⋯⋯


諸君、諸君はこれでもまだわからないだろうか? 駄目だ、この快感のありとあらゆる陰影を解するためには、深く深く徹底的に精神的発達を遂げて、底の底まで自覚しつくさなければならないらしい!(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)


これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたびに、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたれらててきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命の危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何か盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。同様に、決闘の場に立って、相手の発射を待ち受ける瞬間にも、私はいつもそれと同じ恥辱的な、矢も盾もたまらぬ感覚を味わっていた。とくに一度はそれがことのほか強烈であった。白状すると、私はしばしば自分から進んでこの感覚を追い求めたこともある、というのは、それが私にとってはその種のもののなかでももっとも強烈に感じられたからである。(ドストエフスキー  『悪霊』下 P550-551)




◼️ドストエフスキーのマゾヒズム と破壊の悦


ドストエフスキーは、小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであった。in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


ある人は他のある人に対する特定の人間関係において、善人となり、また悪人となる。(森有正『ドストエフスキー覚書』初版1950年)


この潔癖な哲学者(ストラアホフ)は、ドストエフスキイの性格の「奇妙な分裂」には、余程手を焼いたらしい。彼はトルストイに宛てて次の様に書いている。 


「拙著『ドストエフスキイ伝』、お受け取り下さったと思います。お暇の折、御一読、御意見をお洩しくだされば幸甚に存じますが、これについて一言私から申し上げて置きたい事があります。私はこの伝記を執筆しながら、胸中に湧き上がる嫌悪の情と戦いました、どうかしてこの嫌な感情に打ち勝ちたいと努めました。(中略)ドストエフスキイは、意地の悪い、嫉妬深い、癖の悪い男でした。苛立たしい興奮のうちに一生を過ごしてしまったと思えば、滑稽でもあり憐れでもあるが、あの意地の悪さと利口さを思えば、その気にもなれません。(中略)スイスにいた時、私は、彼が、下男を虐待する様を、眼のあたりに見ましたが、下男は堪えかねて、『私だって人間だ』と大声を出しました。(中略)これと似た様な場面は、絶えず繰返されました。それというのも、彼には、自分の意地の悪さを抑えつける力がなかったからです。・・・・

ある日、ヴィスコヴァトフが来て話した事ですが、或る女の家庭教師の手引きで、或る少女に浴室で暴行を加えた話を、彼に自慢そうに語ったそうです。動物の様な肉欲を持ちながら、女の美に関して、彼が何も趣味も感情も持っていなかった事に注意願いたい。・・・・長い間付き合っているうちには、一切を許してしまえる様な人柄を、相手に見つけ出す事も出来るのです。心からの善意の動きとか、悔悟の一瞬とかいうものは、凡てを水に流すものです。フョオドル・ミハエイロヴィッチについて、そういう或る思い出でもあったら、私は彼を許したでしょうし、彼に対して私は愉快な男にもなれたでしょう。頭で作り上げた愛、文章の上の愛しか持たぬ人間を、偉人だと人に信じさせる事は、一体何という嫌なことでしょうか。」(1883年12月)  

これを書いた人間は、この小説家の臨終を看取るまで、二十年間のドストエフスキーの友であった事を思う時、誰の心のうちにも、冷たい風が通るであろう。ここにあるのは、凡庸な一思想家と天才との間にある埋める事の出来ない単なる隔りか。ストラアホフの眺めたものは、ドストエフスキーの或る反面だろうか。例えば、トルストイに、良人の性格を質問された時に、ドストエフスキーの妻が答えた様に、「良人は人間の理想というものの体現者でした。凡そ人間の飾りとなる様な、精神上、思想上の美質を、彼は最高度に備えていました。個人としても、気の好い、寛大な、慈悲深い、正しい、無欲な、細かい思いやりを持った人でした」(1885年)という言葉も嘘ではないのだろうか。人は好んで或る人の反面という言葉を使いたがる。妙な言葉だ。ドストエフスキーも親友と妻とに、巧く反面づつ見せたものである。

ヴィスコヴァトフが、ストラアホフに語った話は、この事件をドストエフスキー自身、ツルゲネフの許で懺悔したという同形の逸話が伝えられているほど有名なもので、事の真偽を調べ上げようと、いろいろ努めている評家もあるが、無論わからない。わかったところで何になろう。単なる事実が逸話より真実だとは限らない。・・・それにしても、この文学創造の魔神に憑かれたこの作家にとって、実生活の上での自分の性格の真相なぞというものが、一体何を意味したろう。彼の伝記を読むものは、その生活の余りの乱脈に眼を見張るのではあるが、乱脈を平然と生きて、何等これを統制しようとも試みなかった様に見えるのも、恐らく文学創造の上での秩序が信じられたが為である。若し彼が秩序だった欠点のない実生活者であったなら、彼の文学は、あれほど力強いものとはならなかったろう。芸術の創造には、悪魔の協力を必要とするとは、恐らく彼には自明の理であった。若しそうなら、ストラアホフは自分の仕事を嫌悪すべき仕事と言っているが、ドストエフスキイは、遥かに嫌悪すべき仕事を仕遂げて死んだとも言えよう。(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』「6恋愛」1939年)



…………………



ドストエフスキーは究極の形で、破壊の悦、あるいは享楽という原マゾヒズムが現れている作家のひとりだろうが、まともな作家には、その多寡はあれ、ほとんど常にこの相がある筈である。


文学者は、社会がアナーキーに突入する前に、あらかじめアナーキーの境に住んでいる番人みたいなものだと思っています。(古井由吉『人生の色気』文学者はアナーキーの境の番人) 

いまどき、男女が本気になって交わるというのも、アナーキーかもしれませんよ。(古井由吉『人生の色気』「断食芸人」の心地で生きる) 


自己破壊には次のような相もある。


己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)




さて話を戻して、確認の意味でもういくらか文献列挙しておこう。



性的悦と自傷行為は近似した欲動である。Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。 L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)


愛することと滅びること、それは永遠の昔から呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「無垢な認識」1884年)

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)




愛(リーベLiebe)は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960)

愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

享楽は、穴埋めされるべき穴として示される。la jouissance ne s'indiquant […]comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)



要するに一般的に愛や欲望と呼ばれるものは、リアルな愛としての「享楽=原マゾヒズム=破壊の悦」に対する防衛もしくは穴埋めに過ぎない。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)

享楽は現実界にある。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […], Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (ラカン、S23, 10 Février 1976)



そして破壊の悦というリアルな享楽=原マゾヒズムの穴は埋まらない。これがフロイトラカン理論の究極の核である。


ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


穴埋めの対象a、この対象aは、人が自らを防衛できないものがある。密封しえない「ひとつの穴の穴埋め」である。ダナイデスの樽モデルの穴の穴埋めである。L'objet petit a bouchon, l'objet petit a, c'est l'objet petit a dont on ne peut pas se défendre qu'il est « bouche un trou » qui est infermable, qui bouche un trou du modèle tonneau des Danaïdes (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 14/11/2007)

享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


生の目標は死である。.…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。Das Ziel alles Lebens ist der Tod […] der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. 〔・・・〕我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)