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2020年12月23日水曜日

超自我の意志

以下、このところ記してきた内容の簡潔版である。


超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である,「享楽せよ!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! », (ラカン, S20, 21 Novembre 1972)

享楽は現実界にある。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […], Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (ラカン、S23, 10 Février 1976)


ーー超自我の命令をここでは超自我の意志と呼んでおこう。



超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,(Lacan, S10, 16  janvier  1963)

唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 、享楽という原マゾヒズムである。cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance(Lacan, S13, June 8, 1966)


超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


要するに超自我とはエスの代理人、死の欲動の代理人である。「未知の制御できない力」の代理人と呼んでもよい。


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。[was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck »gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten]


この力をグロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。[Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)



そしてこのエスの意志が、ニーチェの力への意志、ラカンの享楽の意志である。


自我の、エスにたいする関係は、奔馬[ überlegene Kraft des Pferdes]を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 [Willen des Es] を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …


すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... 


「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"?


――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)




………………




もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


この「常に回帰する己れに典型的出来事」は、身体の出来事としての固着のことであり、何度も示しているように超自我=原抑圧=固着である(参照)。


もし人が超自我という語に抵抗があるなら固着ーー欲動の固着[Triebfixierung]=享楽の固着[la fixation de jouissance]ーーという語を使ってもよろしい。固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されず、エスのなかに置き残され反復強迫を引き起こすということである。



享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme,[…] elle est l'objet d'une fixation. […](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ーーここでのトラウマという語は通念としての事故的トラウマではなく、欲動の身体にかかわる「誰もがもつ」構造的トラウマであり、心的装置外部にある表象不可能なものという意味である。このトラウマはラカン用語では穴とも呼ぶ、ーー《人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.]》(J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 


たとえばまだ成人言語の世界に入場していない幼児なら些細な出来事でもトラウマとなりうる(たとえば私は真のフェティシズムを愛している」の末尾に示したミシェル・レリスの事例)。そしてまさに表象不可能なものを表象させようと試みて、反復強迫を生む。この反復強迫の別名が死の欲動であり、さらには永遠回帰である。


享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


ーーとは、簡単に言えば、享楽の永遠回帰[l'éternel retour de la jouissance]であり、より厳密に言えば、享楽の固着の永遠回帰[l'éternel retour de la fixation de jouissance]である。



トラウマは、自己身体の上への出来事[Erlebnisse am eigenen Körper] もしくは感覚知覚[Sinneswahrnehmungen ]である。…これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 [unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)


ーー《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは、同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。…この運命強迫[Schicksalszwang nennen könnte]とも名づけることができるようなものーー反復強迫[Wiederholungszwang]ーーについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年、摘要)



……………


最後に卑近な話をしておこう。


愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン, S9, 21 Février 1962)

忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)


フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux.  (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


以上、「S(Ⱥ)=超自我=原抑圧=固着」を受け入れるなら、人がある特定の他者に惚れるのは超自我の意志のせいである。「未知の制御できない力」の代理人としての超自我のせいである。


なおラカンの超自我が命令するリアルな享楽とは、死の欲動でありつつ愛の欲動でもあることに注意されたし(参照)。