男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年) |
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ーーラカンのこの区分は、基本的には象徴秩序(ファルス秩序)における男女の愛の特徴である。次のミレールも同様。 |
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女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的(エロトマニア的)です。女性は愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。この現象は、男たちが女たちに話しかける実践の基礎に横たわっています。la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement. Le phénomène est à la base de la drague masculine. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年) |
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他方、象徴界の底にある成人言語外の現実界では、その始まりには男女とも被愛妄想的要求をもっている。もっともリアルなレヴェルで妄想あるいはマニアという語は本来的には相応しくないがここでは敢えてそう表現しておく。 |
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(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]ある。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界[realen Außenwelt ]の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
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女性が被愛妄想的だというのは、リアルなレベルにまで降りていけば、女性の態度のほうがより根源的だということである。 |
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他方、男性は現実界に対して防衛することが甚だしい。この意味するところは具体的には主に受動性から能動性への転換である(参照)。 |
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女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想(エロトマニア)である。Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie (J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018) |
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マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的 である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
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ーーフロイトの女性的という表現は多くの場合、受動的という意味であり、解剖学的女性を意味していない場合が多い。
話を戻そう。人はみな、最初は原大他者の母に対して受動的である。母なる大他者の欲望の対象である。ラカン的な斜線を引かれた主体性とは女性性のことである(参照)。 |
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他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン、S10, 16 janvier 1963) |
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母なる大他者の別名は母なる超自我である。この前提で以下の文を読もう。 |
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超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,(Lacan, S10, l6 janvier 1963) |
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大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…この不安がマゾヒストの盲目的目標である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance. […]Où est cet Autre dont il s'agit ? […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, (ラカン, S10, 6 Mars 1963) |
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ーー《享楽の意志は欲動の名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion.》 (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) 繰り返せば、原初には人にはみな受動的マゾヒズムがある。愛されたい要求がある。つまり被愛妄想的である。 |
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享楽は現実界にある。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […], Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (ラカン、S23, 10 Février 1976) |
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もっとも被愛妄想的なマゾヒズムには二つのヴァージョンがある。 |
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ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。 Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même.. (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |
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おそらく前者が象徴界的ヴァージョン、後者が現実界的ヴァージョンと捉えうる。そして後者の病理的ヴァージョンが死の欲動である。女性には自傷行為だけでなく摂食障害等が男性に比べて格段に多いのは、ラカン派的観点ではこのせいである。 |
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死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969) |
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マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989) |
なおリビドーは享楽であり、愛の欲動である。 |
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
リビドーは愛と要約できる。Libido ist …was man als Liebe zusammenfassen kann. 〔・・・〕哲学者プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の力 、すなわちリビドーと完全に一致している。Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse〔・・・〕 この愛の欲動を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動と名づける。Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
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フロイトの公式のエロスとタナトスの区分はこうである。
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。 Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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要するに愛の欲動は死の欲動である。二つは対立していない。愛の引力の先には死がある。
ラカン的な補正は次の通り。
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年) |
(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である 。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
これを掴んでいないと、ラカンの享楽=死の欲動の意味がまったくわからないないだろう。すなわちラカンのリアルな享楽は愛の欲動でもある。
欲動、すなわちエスの意志[Willen des Es]=享楽の意志[Volonté de jouissance]、もしくは《エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)