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2020年12月7日月曜日

男というものは存在しない

 


女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)


で、男というものは存在するのだろうか?


はっきりしているのは、男というものは存在しないことである[il est clair que L’homme n’existe pas.](Marie-Hélène Brousse, Le trou noir de la dif­fé­rence sexuelle, 2019)


これは一部のラカン派で昔から言われている。


女というものは存在しない。同様に、男というものも存在しない。The Woman does not exist, neither does The Man. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

女が存在しないなら、男はおそらく自分が存在すると信じている女である。if woman does not exist, man is perhaps simply a woman who thinks that she does exist (ZIZEK, THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY, 1989)


さらに確認しておこう。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロランÉric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)

標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。[she lacks something (Phallus) with regard to man as a complete human being]


だが異なった読み方によれば、不在は現前に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である[man is woman with phallus]。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を穴埋めする詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。


《 我々は、無と本質的な関係性をもつ主体を女たちと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」と関係をもつあり方は、(男に比べ)より本質的でより接近している。nous appelons femmes ces sujets qui ont une relation essentielle avec le rien. J'utilise cette expression avec prudence, car tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien, mais, d'une certaine façon, ces sujets que sont les femmes ont une relation avec le rien plus essentielle, plus proche.》 (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


ここから次のようにどうして言えないわけがあろう。すなわち究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた主体」の空虚)が女性性である、と。[subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](ジジェク『『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年)



つまり男というものはファルスの詐欺師としてのみ存在する。


女性性の普遍的概念が欠けている[manquant d'un concept universel de la féminité]。 女たちは女が何であるか知らない[elles ne savent pas qui elles sont]。〔・・・〕しかし女たちは自分が知らないことを知っている[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。(Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) 



ジャック=アラン・ミレールは次のように言ってきた。


女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”. Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)

「女というものは存在しない」という命題は、「女たちの世界はない」と翻訳される。これは女たちには固有の徴がないという事実による。…しかし単独性は十全にある。これは「女たちはいる」を意味する。男たちは固有性を持っている。女たちは単独性を持っている。La thèse «La femme n'existe pas » se traduit par, « il n'y a pas d'universel des femmes », et par là même le trait du particulier ne leur est pas, au moins d'origine, attribué, mais bien la singularité. C'est le sens de « il y a des femmes ». Les hommes auront le particulier, les femmes auront le singulier.  (J.-A. Miller, Le lieu et le lien, 7 mars 2001)


要するにファルスの有無である。もともとラカンの「女というものは存在しない」はフロイトが既に言っていることを格言的に流通させただけである。


「幼児期の性器的編成」の主要な特性は、最終的な成人の性器的編成とは相違がある。それは次の事実において構成されている。つまり両性にとって、ひとつの性器、つまり男性の性器しかないことが重要な役割をもつ。したがって、ここに現れているものは、性器の優位ではなく、(徴としての)ファルスの優位である。〔・・・〕男性性は存在するが、女性性は存在しないのである。

Der Hauptcharakter dieser » infantilen Genitalorganisation« ist zugleich ihr Unterschied von der endgültigen Genitalorganisation der Erwachsenen. Er liegt darin, daß für beide Geschlechter nur ein Genitale, das männliche, eine Rolle spielt. Es besteht also nicht ein Genitalprimat, sondern ein Primat des Phallus. 〔・・・〕gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)



そしてファルスとは事実上、言語である(参照)。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


したがってラカン派では象徴秩序のことをファルス秩序とも呼ぶ。


ところでラカンはこうも言っている。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)


大他者は存在しない、言語は存在しないとは、象徴界は存在しない、ファルスは存在しないということである。つまり象徴界もファルスも仮象にすぎない。もし人がラカンの独自性を言いたいなら、「女というものは存在しない」ではなく、むしろーーダイレクトにそうは言っていないにもかかわらずーー「男というものは存在しない」である。「男」は「人間」に変えてもよろしい。もっともこれ自体、ニーチェが既に言っているとしてもよい(参照)。


「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない[Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzugelogen...]。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)



他方、ララングとは現実界的な母の言葉である。


ララングが、母の言葉[la dire maternelle]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

シニフィアンは、(象徴的)連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)

サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。 le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère (Geneviève Morel,  Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


以上、女というものは存在しないだけではなく男というものも存在しない。それだけではなく、現実界の基盤には母なる女がいる、あるいは母の享楽がある。《私の恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrin》(ニーチェ「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」がいるのである。


仮象の象徴秩序(ファルス秩序)とは、この母なる享楽に対する防衛システムである。母なる享楽の別名は母なる穴である。


現実界は…穴=トラウマを為す。 le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

享楽自体、穴をを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである [la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite](J.-A. Miller, Religion, Psychoanalysis、2003)

〈大文字の母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (Colette Soler « Humanisation ? »2014)