以下、一般にはラカニアンの言葉遊びに見えかねないだろうことを記す。
父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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現代ラカン派では、この他の排除のことを、一般化排除の穴 [Trou de la forclusion généralisée](=女というものの排除の穴[trou de la forclusion de La femme])と言う(参照)。
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さらにトラウマとしての穴はリアルな去勢と等価であり、一般化去勢[la castration généralisée]、一般化トラウマ[le traumatisme généralisé]とも言う、ーー《疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある[Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. ]》(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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この穴に対する防衛として妄想がある。人がみなもっている一般化妄想[le délire généralisé ]である。
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「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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穴とは現実界のトラウマである、ーー《現実界は…穴=トラウマを為す[le Réel …ça fait « troumatisme ».]》(ラカン、S21、19 Février 1974)
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ここでの妄想とは穴=トラウマに対する防衛であり、基本的には悪い意味ではない。
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病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
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要するに妄想とは穴埋めである。たとえば、愛も原初の穴に対する穴埋めである。ーー《愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou]。》(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)
ミレールが《我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。》(J.-A. Miller ,Clinique ironique, 1993)と言う時の「言説」とは、ラカンは「社会的結びつきlien social」と定義しているが、その裏には、フロイトが1921年に言った《愛の結びつき Liebesbeziehungen》がある。フロイトのリーベは愛だけでなく欲望をも意味する語であり、言説とはリーベの結びつきである。要するに愛の結びつきは享楽の穴に対する穴埋めである。
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愛の結びつき[liens d'amour] を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない[ la jouissance ne se prête pas à faire rapport]」という事実、これは(症状としての愛の根にある)現実界的条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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享楽の穴とは、別の言い方なら、欲動の現実界の穴、原抑圧の穴である。
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享楽は、穴埋めされるべき穴として示される。la jouissance ne s'indiquant […]comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。この穴は原抑圧との関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. […] La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)
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リビドーは、穴に関与せざるをいられない。〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。La libido, …ne peut être que participant du trou.…c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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原抑圧はなによもまず固着(リビドーの固着、享楽の固着)であり、したがって原抑圧の穴とは、固着の穴、身体の穴でもある。
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結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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この穴に対する防衛として、妄想以外にも別の表現の仕方がある。
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倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する[ le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre,](ラカン、S16、26 Mars 1969)
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ーーここでの大他者には身体という意味もあるので注意しなければならない、ーー《大他者は身体である! L'Autre c'est le corps! 》(ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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ラカンは倒錯について最終的にこう言っている。
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フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である[ toute sexualité humaine est perverse]。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性[ fécondité de la psychanalyse] と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する[ inventer une nouvelle perversion] ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である[ la perversion c'est l'essence de l'homme] 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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ーーここで言われているのは、一般化倒錯[la perversion généralisée]である。
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さらにこの一般化倒錯は、一般化フェティシズム[le fétichisme généralisé]という表現の仕方もなされる(参照)。ようするに母なる穴の穴埋めである。
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フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)
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〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールC.Soler, Humanisation ? ,2014)
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かつてはフェティシズムは男性的特徴とされた。だがここでの意味での一般化フェティシズムは、男にも女にもあるフェティシズムであり、女性がフェティシズムから免れているわけではけっしてない。これについては倒錯も同様。
ここまで記してきた表現を図示すればこうなる。
この図は左右のそれぞれの行が一対になっているわけではない。左の三つの表現の仕方としての穴に対する穴埋め(防衛)として右の三つの表現の仕方があるという意味である。つまりは「人はみな妄想者=人はみな倒錯者=人はみなフェティシスト」である。
一般化妄想・一般化倒錯・一般化フェティシズムのより穏やかな表現として、一般化症状[le symptôme généralisé]がある。
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ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もが持っている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé, (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
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症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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ラカンは倒錯を父の版の倒錯[père-version]と表現している。
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倒錯とは、「父に向かうヴァージョン [version vers le père]」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である[ le père est un symptôme]。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい[ ou un sinthome, comme vous le voudrez]。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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ミレールによる注釈は次の通り。
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父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。彼の教えの進路においてデフレーションがあり、父の名は最後にはサントーム以外の何ものでもなくなる。つまり穴の補填である[finissant par faire du Nom-du-Père rien d'autre qu'un sinthome, soit une suppléance au trou]。…父の名の症状によって穴埋めされる穴は、人間における性関係の不在の穴である[que ce trou comblé par le symptôme Nom-du-Père renvoie à l'impossible du rapport sexuel dans l'espèce humaine]。
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父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しむ[ceux qui souffrent de n'avoir aucun savoir sur le sexe]。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
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ーーそしてセクシャリティについての知の欠如に悩む結果として、《各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》( Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
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以上から論理的に妄想と倒錯は等置できる。一時期、ラカン派のなかの党派のあいだで、やれ妄想だやれ倒錯だという紛糾があったが、穴埋めという構造的必要性の視点からは、妄想でも倒錯でもどちらでもよろしい。さらにフェティシズムでもよい。フロイトが精神病/倒錯(フェティシズム)の定義に使った「排除 Verwerfung/否認 Verleugnung」に拘泥する議論が今でもないわけではないが、フロイトを別の観点から読むと(参照)、フェティシズム自体、リビドーの固着に起源があるとしており、「フェティッシュのインフレ」で示したように、原症状としてのサントームと区別しがたい。現在ではフェティッシュ的サントーム[sinthome fétiche]と表現するラカニアンもいるぐらいである。
ミレールは隠喩/換喩用語を使ってこう言っている。
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よりよく理解するために、われわれは隠喩と換喩の対立の助けを借りることができる。身体の享楽の隠喩がある。この隠喩が出来事を為す。この出来事を為すことをフロイトは固着と呼んだ。これは、あらゆる隠喩としてのシニフィアンの作用をも想定できる。だが意味外で作用するシニフィアンである。そして享楽の隠喩の後に、享楽の換喩がある。すなわち弁証法的な換喩である。この瞬間にそれは意味作用をもつ。
On peut avoir recours pour mieux le saisir à l'opposition de la métaphore et de la métonymie. Il y a une métaphore de la jouissance du corps, cette métaphore fait événement, fait cet événement que Freud appelle la fixation. Ça suppose l'action du signifiant comme toute métaphore, mais un signifiant qui opère hors-sens. Et après la métaphore de la jouissance il y a la métonymie de la jouissance, c'est-à-dire sa dialectique. A ce moment-là il se dote de signification. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011)
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「隠喩(métaphore)/換喩(métonymie)」とはラカンの定義において「圧縮(Verdichtung)/置換(Verschiebung)」である。おそらくラカンが黒いフェティッシュと呼んだものがこの身体の出来事=固着=サントームに相当する。
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享楽が純化されるとき、黒いフェティッシュとなる。[Quand la jouissance s'y pétrifi e, il devient le fétiche noir](ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)
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純粋対象、黒いフェティッシュ[pur objet, fétiche noir. ](S10, 16 janvier 1963)
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
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例えば縄文ヴァギナデンタータこそ、ミシェル・レリスMichel Leirisがいう「真のフェティシズム[fétichisme véritable]」、あるいはラカンの「黒いフェティッシュ[fétiche noir]」である。
話を戻してもういくらか確認しておこう。
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最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, 2013)
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倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である[Tout désir est pervers]。享楽が、いわゆる象徴秩序が望むような場には決して収まらないという意味で。
そしてこの理由で、後期ラカンは「父性隠喩 la métaphore paternelle」(父の名の隠喩)について皮肉を言い得た。彼は父性隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動き[mouvement vers le père]》の版という意味である。(J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, 2013)
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こういう思考が何に役立つのか。ここから、自ら正常だと思っている神経症者も妄想・倒錯・フェティシズムから逃れてはいないという結論に至るのである。
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結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール、Lacan, L'inconscient Réinventé, 2009)
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エディプス的な神経症者とは大他者の信者である。《神経症とは、内的な欲動を大他者に帰することによって取り扱う方法である。》(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER From subject to drive, 2001)
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ようするに自らの身体的リアルを大他者のせいにして誤魔化す種族である。
したがって大他者を信仰する者は、むしろ最も重度な妄想者、最も重度な倒錯者、最も重度なフェティシストだと言いうる。既存システムに安住して生きる者も大他者の信者であり、もちろん神の信者もしかり。
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これが、たとえばニーチェが美しい魂、安吾が善人という言葉で言わんとしたことである。
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通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen]…完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen] (ニーチェ『この人を見よ』)
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善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
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私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)
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なぜ日本ラカン派からこういう話が前面に出てこないのか。その理由は明らかである。たとえば現在の日本ラカン協会なる組織は、どう贔屓目にみても重度の神経症的集団である。
連中のなかにはそれなりのプロフェッショナルもいるだろう。
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プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)
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「共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するプロフェッショナル」ーーこれを誰が否定できよう。
ここでさらにサン=テグジュペリを引用しておこう。
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建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者である。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)
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須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》と。(『遠い朝の本たち』)
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